「くたばれアーサー!」
なんて、物凄く軽い調子で言う。俺の弟、今じゃ元弟だが──アルフレッド・F・ジョーンズはそんな奴だ。
ジャンクフードばっか食うわ人の意見は聞かないわ未だに世界地図を買う気配がないわ、元兄ながら悲しいかな、長所が見付けられない。自己中心的で、空気を読まなくて、こうと決めたら脇目も振らずに突き進んで。そんな奴なのだ。と、ずっとずっと思っていた。
小さい頃はそりゃあ可愛かった。俺に懐いてて、立場上たまにしか会いにいってやれないから、別れ際は涙を浮かべてくれさえした。けどそれはもう一世紀も前のことだ。目の前にいるこいつはアルフレッドであって、小さくて可愛いアルじゃない。そう分かっているのに、そこにいるのがアルに見えて仕方がない。
何だって、そんな風に殊勝な顔してんだよ。お前はいつも周りのことなんか歯牙にも掛けずに、前を向いてりゃいいんだ。
俺のマナーハウスにアポも取らずに押しかけてきて、出してやったスコーンに不味いとけちをつける。その辺りまでは普通だった。昔みたいに兄弟のようにすることは出来ないが、俺とアルフレッドは友好関係にあるのだ。国としても、一個人としても。オフでこうして向かい合っていて、気不味くなることなんかほとんどない。
アルフレッドは飲み掛けの、もう大分冷めてしまっているだろう紅茶の入ったカップをじっと見つめている。思い詰めたみたいな表情。そんなの、お前には似合わねぇよ。だから早く顔を上げて、暴言の一つでも吐けばいい。そうしたら俺はいつもみたいに返して、それで、変な空気なんかなくなる筈なのに。
「ねぇ、アーサー」
アルフレッドが吐き出す声は重く、暗い。掬い上げるみたいな視線を眼鏡の奥から向けられて、俺はぞわりと背筋を震わせる。
何、だろう。こんな感覚、滅多に感じるもんじゃない。こんなアルフレッド、俺は見たこと、ない。ぞわぞわ嫌な感覚が這い上がる。
何だろう。何だろう。嫌な気分だ──吐き気にも似たものが、込み上げてくる。
「何だ、アル?」
俺は努めて冷静に応える。声は震えていなかっただろうか。自分じゃどうだったか判別がつかない。
アルフレッドは自分から話し掛けてきた癖に、また押し黙ってしまう。淀んで停滞する不快な空気。早く払拭して欲しい。
何か言えよ、アルフレッド。話し掛けてきたんだから、何か言いたいことがあるんだろ。
「ア、」
「君、未だに僕を弟として見てるだろ」
如何にも俺を責める口振りで、アルフレッドは俺の言葉を遮った。俺はそれをすぐには否定出来ない。その通りだからだ。俺はまだアルフレッドを弟として見てる。
しょうがないだろう、目に入れても痛くないくらい可愛い存在だったんだから。そんな奴がいきなり独立して、他人になったからって、あっさり割り切れる筈がない。無理だよ、アルフレッド。どれだけ対等な関係を演じていたって、俺にとってお前は可愛い弟のままなんだ。
あぁ、アルフレッドの碧い綺麗な瞳の奥に燃えているのは何だろう。憤怒? 憎悪? 違う、これは──焦躁?
俺は訳が分からなくて、アルフレッドを見返すしかない。苛立ちを表すかのようにすぅと目が眇られる。ついでに口元が吊り上がって、あぁ、俺の嫌いな笑い方になる。小さい頃の屈託ない笑顔とは正反対の類の、昔の俺に似ている気もするそれ。
「知ってて無視してるのかい? それとも気付いてないのかい? どっちだっていいけど、俺はもう限界なんだぞ」
一気に捲し立てて、アルフレッドはがたりと立ち上がる。
危ねぇな、おい。もう少しでカップ落ちるところだったじゃねぇか。お気に入りのウェッジウッド割ったら承知しねぇぞ。
ズカズカ足音も荒く寄ってくるアルフレッドに視線を向けると、近過ぎるくらいまで距離を詰めてきていた。じっと見つめられる──見下ろされる。怖いくらいに真剣な目。
知ってて無視してる? 気付いてない? 限界って、何のことだよ。アル、アルフレッド、俺は。
「君が好きなんだ、アーサー」
「ア、ル」
ぎゅう、抱き付いてきたアルフレッドの体は、俺を包み込んでしまう。この腕の中にはもう収まらない。こいつは小さくて可愛いアルじゃない。
アルフレッド、大西洋を隔てた向こう側にいる、大国。俺の弟「だった」奴。もう随分前に俺の手を離れてしまった、愛し子。今は表面上は対等な関係だ。兄でもなく弟でもなく、一国として一個人として、俺たちの関係は続いている。
けれどあぁ、俺の脳はアルフレッドの紡いだ言葉を正確に認識することを拒否する。分かってる。分かってる。分かってた、ずっと前から。アルが向けてくる好意が、家族へのものとは変わってしまったことに。けど俺はそれを認めたくなくて、気付かない振りをした。
だって、アルは可愛い可愛い弟なのだ。そんな風には、とても、見れなくて。俺だって好きだ、愛してる。でもそれは「アル」がであって、「アルフレッド」がじゃ、ない。俺の中じゃずっとアルフレッドはアルという可愛い弟だから、アルフレッドを好きだし愛してると言ったって間違いではないんだろう。
でも違う違う違う。アルフレッドが俺に求めてるのは、家族に向ける愛情なんかじゃない。でも俺はそれ以外をお前に与えてやることが出来ないんだよ。
なぁ、アル、アルフレッド。
「何、言ってんだ、お前。離せよ、重い」
平然としていることなんか、出来る筈がなかった。俺の声は明確に震えていた。応えずに突き放そうとする俺を、アルフレッドはより強い力で抱き竦める。
止めろよ。止めてくれよ。これ以上思い知らせないでくれ。もうお前はアルじゃないんだってこと。こんなにデカくなって、俺より余程強くて。俺のことが、兄じゃないアーサー・カークランドのことが、好きだなんてこと。
嫌だ嫌だ知りたくない認めたくない。可愛い弟のままでいてくれ、頼むから。
「いい加減、腹括ってくれよ。俺はもう、少しも待ってやれないんだぞ」
耳元で囁かれる声。アルのとは違う──アルフレッドのそれ。
腕の力は緩めずに、アルフレッドが少しだけ顔を遠ざける。眼鏡の奥から真っ直ぐに見つめられて、ゾッと、した。アルの面影なんか、どこにも残っていないみたいで。俺が知ってた筈のアルフレッドという存在が、急激に未知のものになる。
こいつは、誰だ? こんなアルは、アルフレッドは、知らない。俺が知ってるのは。知ってるの、は。俺が。
不意に顔が寄せられる。狭まる距離──唇の間。俺は動けない。息さえ上手く吸えない。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁ!
俺は、俺のアルは。アルフレッドはこんな。こんなの違う。全部全部間違ってる。
アル、アル、アルフレッド。俺は。
「何度だって言ってあげるよ、アーサー。君が好きだ…愛してる」
そっと触れた唇は、俺の中のアルを粉々に、砕け散らせた。
笑えない冗談
(どうかそうなのだと言って、俺の、)
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