怖い。怖い怖い怖い怖い。側に誰もいてくれないのが怖い。人が近くにいるのが怖い。あの人がどこにもいないのが怖い。あの人が近くにいるのが怖い。ぐるぐるぐるぐる、同じようで違う言葉は俺の頭の中を駆け巡る。
 綺麗に整えられた部屋だ。ベッドと、机と椅子と、クローゼットと、小さなバスルーム。全体的に落ち着いた色合いの部屋。カーテンも壁紙も絨毯も、勿論家具だって凄くいいものを使っている。贅を尽くした部屋だ。
 誰の為に? そんなのは考えることさえ、馬鹿らしい。

「まだ生きてるかい、アーサー」

 不意にそんな声が聞こえて、俺はぼぅっと部屋を眺めていた視線をそっちに向ける。そこには見慣れた姿があった。
 アルフレッド・F・ジョーンズ、俺の元弟で現恋人。アルは俺に、冷めたみたいな冷たい目を向けてくる。でも俺は知ってる。それは大部分が眼鏡のせいで、外したらまだ幼さの残る可愛い顔をしてるって。
 反射的に顔が緩む。俺が相好を崩したのを見て、アルは盛大な溜め息を吐いた。何か嫌なことでもあったんだろうか。こんな風にするのは、余り見たことがない。

「何だってそんな嬉しそうな顔するのさ。君って本当に自分の立場を分かってるのかい?」

 こつこつ、硬い靴音を響かせてアルは俺に近寄ってくる。駆け寄って抱き締めたかったけど、俺は身動きが取れなかった。だからそのままの格好で待つしかない。
 …何で俺は動けないんだっけ。

「うっかり忘れてた、とか言わないでくれよ」

 ぎ、とベッドのスプリングが軋む。俺の上に影が落ちる。腕に触れられて、俺は漸くそこに何があるか思い出した。
 拘束具、だ。重度の精神病患者にでもつけそうな、布で両腕を巻いてベルトで固定するやつ。足にも同じようなのがあった。アルは妙に慣れた手付きで、戒めを両方とも解く。
 俺は少しだけ強張った指を動かしながら、肘を突いて上半身を起こした。少しだけアルとの間にある距離が狭まる。

「自分の立場、分かってるの、アーサー?」
「分かって、る」

 子供にしつこく確認するみたいに聞かれて、こくりと頷く。一緒に出した声はちょっと掠れていた。
 あぁそうか、もう半日くらい何も口にしていないんだっけ。俺はベッドサイドに立つアルに腕を回す。ぎゅうと抱き付く。丁度顔がウエストの辺りになって、微かに柔らかい感触に小さく笑みが漏れる。またちょっと太ったんじゃないのか、こいつ。

「分かってる人の行動じゃないと思うんだけどなぁ…」

 口の中でぶつぶつ言いながら、それでも優しい仕草でアルは俺の頭を撫でる。そうされるのは好きだった。昔俺がしてやったみたいにされるのは何だか複雑だったけど、それでも安堵が得られるから。だから好きだ。
 アルにくっつくのは好きだ。体温が確かにアルが側にいることを教えてくれる。優しく触れ合えるのは嬉しいし、幸せ。
 アルがいる。側にアルがいてくれる。それが俺の幸せで──俺の不幸。
 すうっと手が離れるのに、体は過剰な程に反応した。ハッとしてアルの顔を見上げる。アルはまだちゃんとそこにいて、ちゃんと俺のことを見てた。ほんの少しだけ安心して息を吐く。まだしっかり抱き付いてるから、いなくなる訳ないのに。

「アーサー、」

 子供の癇癪を宥めるみたいなアルの声。
 お前こそ、分かってるのかよ。俺の方が年上なんだぞ。お前なんかよりずっと、ずっと。
 そっと腕に手がかけられる。やんわりと引き離す動作。それに俺は、やっぱり過剰な程に反応する。ぎゅうぎゅうと力の限り抱き付く。離したくない。嫌だ嫌だ嫌だ離れさせないで。
 誰かが側にいてくれるのが当たり前になったら、始終そうじゃないと気が済まなくなった。一人は寂しいから、辛いから。もっと側にいて欲しい、触れ合っていたい。俺の欲求は尤もなもので、でも同時に実現不可能なものだった。

「やだ行かないで、」
「…アーサー」

 溜め息と共に吐き出された自分の名前に、俺はびくんと硬直する。条件反射みたいなそれを利用して、アルは俺の腕を引き剥がしてしまう。
 漸く我に返って抵抗しようとしたら、そんな頃には既にまた拘束具がつけられていた。何で変なとこだけ手際がいいんだろう。凄く口惜しい。俺はいつも丸め込まれてしまう。

「いや、やだ嫌だアル行かないで一人にしないで俺は」

 勝手に言葉を紡ぐ唇に、それを遮るようにアルが指を押し当ててくる。それから、ベッドに転がる俺に顔が近付く。
 じっと見つめてくる瞳は綺麗な青。澄み渡った空の色。俺の大好きな色。
 アルの舌先が目印に滲んでいたらしい涙を掬う。擽ったさに俺は小さく身を捩る。

「君はいつだって一人なんかじゃないよ」

 そんな言葉と共に、額に降ってくる口付け。唇にしてくれればいいのに。
 俺の気持ちを知ってか知らずか、アルは身を引いて立ち上がる。その顔にはよく分からない表情が張り付いている。何だろう、あれ。ちょっと前まではちゃんと分かったような気がするのに、な。

「、アル」
「またね、アーサー」

 ハイスクールの帰り際みたいな気楽さでそう言って、アルは部屋を出ていってしまう。ばたんと扉が閉まって、小さな音がそれに続く。かしゃん。それが何の音か、俺には十分過ぎるくらいに分かっている。
 だから深く息を吐く。大丈夫、アルはちゃんと俺のことを捕まえてくれている。大丈夫大丈夫、俺はまだ、大丈夫。アルがいてくれれば何だって、平気な筈なんだ。






鍵のおちる音で安心する
(どうかお願い、しっかりと俺のことを捕まえていて)






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