見上げた空は曇天、分厚い黒雲が垂れ籠めている。アルフレッドは軽く溜め息を吐いて、窓から視線を逸らした。すると目には山積みにされた書類が飛び込んでくる。どちらとも非常に見たくなかった。いっそこの部屋から逃げ出してどこかでのんびりしたいが、そんな訳にもいかない。
 仕事が大量に舞い込んできているのだ。貴方にしか出来ない仕事なんです、なんて言われたらやるより他にない。何せ彼は、ヒーローなので。
 最近掛け始めた伊達眼鏡の弦を押し上げて、アルフレッドは椅子に沈み込む。やらなければならないのは重々承知だ。だが頭は働いてくれそうにもない。考え事を始めるとすぐに浮かぶのはあの日のことだ。頽れた彼の、見たことのない表情。同時に味わった達成感と喪失感。降り頻る冷たい──雨。
 その記憶ばかりがぐるぐるぐるぐると脳裏を駆け巡る。何度考えても何も変わらないのに。手に入れたもの、手から取り零したもの。後悔したところで以前のように戻れる訳ではない。進むと決めたのだ、自分は。彼の手を振り払って、進むと決めたのだ。
 アルフレッドは心中で何度も呟いて自分に言い聞かせる。今更何を躊躇する? 戻れないのなら進むしかないではないか。
 気を取り直してぐーっと背伸び。それから放り出していた万年筆を手に取って、書類に目を通し始める。飴色のペン、それはいつぞや彼がくれたものだ。一瞬郷愁が過ぎるが、アルフレッドはそれを無理矢理に無視する。誰からもらったものでも構わない、今は字が書ければそれでいいのだ。
 ペンを動かす、必要なことを書き記していく。筆跡は彼のものに似通っていた。手ずから教えられたのだから当たり前と言ったら当たり前だ。
 駄目だ、どうしても考えてしまう。アルフレッドは再び万年筆を放り出し、椅子を蹴立てた。
 熱くて濃いコーヒーでも飲んで休憩して、それからちゃんと仕事に戻ろう。そうしたらこの気分も幾分か晴れている筈だ。あぁ自分らしくもない、感傷に浸ってやるべきことに集中出来ないなんて。
 それもこれも全ては彼、成り行きで兄になったアーサーのせいだ。アーサー・カークランド、かの大英帝国、その体現たる人。幼い頃は彼の訪問が待遠しくてしょうがなかった。物心がついた頃は過保護に辟易して反発した。そしてつい最近、目の上の瘤でしかなかった彼を、アルフレッドは廃した。もう保護者は必要ない、自己防衛出来るだけの力は身に着けた。
 だから。だから、彼は反対しても最後にはきっと受け入れてくれると思った。認めてくれると思った。大きくなったな、強くなったな、と。何だかんだ言いながら我儘を聞いて甘やかしてくれたものだから。
 けれど現実は違った。彼は最後まで、自立することを認めようとはしなかった。口では認めたようなことを言っていても、そこに彼の本意はなかった。本当に口先だけの、言葉。お前の独立を認めてやると、彼はにこりとも笑わずにそう言った。それには感情など欠片も含まれてはいなかった。事務的な口調、表情。凍り付いた瞳は絶対零度の拒否を明確に示していた。
 実状はどうあれ、書面上はどうあれ、俺は絶対に認めない。認めてなどやらない。
 彼の目は他の何よりも雄弁にそう語っていた。思い出すと嘔吐感に襲われる。何の為に決心したのだか、分からなくなってしまう。
 こんな、こんな──。

「ぁ、」

 ぱた、と何かが窓を打った。
 そちらに目を向ければ、透明な液体が硝子を濡らしていっている。雨だ。あの日以来振っていなかった、雨。
 アルフレッドは眼鏡を外し、それをそっと机の上に置く。降り始めたばかりだというのに雨脚は随分と早く、見る間に硝子がびしょ濡れになった。木々も生い茂った葉から水滴を滴らせていく。食い入るように雨に包まれる景色を見つめる。
 あの日、自分は雨に打たれて立ち尽くしていた。手には傷を付けられたマスケット銃。そして眼前には頽れた、彼が。雨に濡れた頬には、もしかしたら涙が伝っていたのかもしれない。
 抱き締めたかった。掻き抱いて、胸の内を全てぶち撒けてしまいたかった。だがその欲求は理性に負け、心の中に押し止どめられた。
 まだ、駄目だ。誰しもに認められる、一人前の国にならなければ、駄目なのだ。そうでなければ言える筈もない。
 アルフレッドは屋外をぼんやりと眺め、窓の桟に指を這わせた。






降り出した涙雨
(これはきっと君の涙だ)






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