「ん……ふ…ぁ、」

 カウチに体を預け、ゆるゆると力を抜いていく。夕日の差し込む室内で、俺はルートヴィッヒの唇を貪っていた。というのは、少々事実と異なるだろうか。正確に言うならば、ルートヴィッヒに口付けさせていた。
 ルートヴィッヒはゆったりと体を横たわらせた俺の上に覆い被さるような形になっている。従順な犬は可愛らしい。俺はくしゃくしゃと髪を掻き混ぜ、腰に脚を絡める。擦り寄るようにすると、ルートヴィッヒはぎくりとするように体を揺らした。俺を見つめる碧眼には秘められた欲情が垣間見える。間近で零される息が、熱い。
 まだ日のあるうちだろうと書斎だろうと、気分がノってきた俺にはまるで関係がない。尻尾を振りたくってよしを待つ犬に号令を掛けてやろうとした、丁度、その時。控え目なノックの音が俺の言葉を遮った。
 イラッときて、無視してやろうと応えないことにする。ルートヴィッヒも背後にある扉に一瞬意識を向けたが、擽るように上唇を舐めてやると、気にしないことにしたらしかった。少しばかり距離を詰めてくる顔、その耳朶に俺は顔を寄せる。ゆっくりと口を開く。待ち望まれた命令を舌に乗せて、峙てられた耳に囁き──

「誰もいないのか?」

 などという声と共に、ガチャリと扉が開けられた。
 言葉を紡ぐ為に吸った息を、俺は盛大な溜め息に変換する。誰だよ俺様の楽しみを邪魔するのは。肉体的にも精神的にも社会的にも抹殺されたいのか。何か凄ぇ聞いたことある声な気がするが、多分聞き間違えだろう。だってその声の持ち主、目の前にいるし。単に声質が似てるとか、そんなところに違いない。
 それにしても不届き者は何処の誰だ。ルートヴィッヒを誘い込んだ格好のまま、俺は肩口から顔を覗かせる。開いた扉の向こう側には、呆然と固まっている、ルートヴィッヒがいた。
 って、いやいやいやおかしいだろう。俺の目の前にルートヴィッヒはいる。で、向こうにも………ルートヴィッヒにしか見えない奴が、いる。意味が分かんねぇ。どうなってんだよこれ。
 俺まで固まってしまったものだから、大人しくしていたルートヴィッヒが体を動かした。柔らかい手付きで脚を下ろさせて、ドレスの裾を整えて──こういうところは本当に律義な奴だ──振り返る。そして絶句。鏡でも見たような気分なんだろうか。あっちは眼鏡を掛けてるが、実にそっくりだ。寧ろそのものだ。
 暫く全員が静止したまま時が流れる。こんな事態に冷静に対応出来る奴がいたら今すぐに来て欲しいぜ、全く。心中でそう悪態を吐けども、そんな奴がやって来てくれる訳もない。俺は深く息を吐き出し、ルートヴィッヒの首に手を引っ掛けて体を起こす。
 まだどう反応していいやら計り兼ねているらしいルートヴィッヒの頬をぺしぺし叩く。ハッとした顔で、ルートヴィッヒは俺を見た。真っ直ぐに向けられる碧眼。同じ色だ。扉の向こうの奴と、全く同じ。

「下がれ」
「っ、」
「俺はお客サマの相手をしてやらないといけないから、な」

 意見したそうなルートヴィッヒの鼻先に、戯れに触れるだけのキス。迷いを孕んで空を彷徨った瞳はやがてゆるりと伏せられた。青玉が次に現れた時には、それまで浮かんでいた表情は消え去っている。努めて感情を消した様子でルートヴィッヒは立ち上がる。男の間を擦り抜けて、去っていく。
 俺はその背中を見送りながら、凭せ掛けていた上体を起こした。結い上げていた髪が乱れて酷いことになっているから、解いて下ろすことにする。癖のついた房を後ろに流し、俺の目は男を見る。ルートヴィッヒのそっくりさんを。
 手招く動作に、男は微かに目を細めた。こちらの出方を窺う目付き。自分はどう出るべきなのかを考えて、眼鏡の奥で碧眼が理知的に光る。その様子にぞくりと体を走り抜けるのは、何なのだろう。官能か、それとも。
 扉の真向かい、放り出した書類がまだ山と積まれている机に腰掛ける。悠然と構えて待っていると、男は遅々とした動作でこちらへと足を踏み出した。


◆ ◇ ◆


「成程……全く理解出来ねぇ」
「同意見だ」

 適当に椅子に座らせて根掘り葉掘り事情を聞いたところ、俄かには信じ難い話をされた。俺様はちょっと頭が痛い。そんなお伽話みたいなことが起こっていいんだろうか。どうにかしてるぜ、全く。とぶつぶつ言っていたって何の解決にもならない。取り敢えず分かり易いことから整理していくことにしよう。
 ルートヴィッヒにそっくりな男の名前は、ルートヴィッヒ。職業は医師。ということなので、センセと呼ぶことにする。似た顔で同じ名前の奴が2人いるとかややこしくて適わねぇ。
 俺の部屋、というかこの屋敷に来た理由は、丁度遣いに出していた使用人が操っていた馬車に引かれそうになったから。つまりまぁ、お詫びがしたいからとか云々でドジな使用人が連れてきたらしい。白衣に泥が飛んだとか新しいの買う金その場で渡せばいいんじゃねぇの、と思ったけど口には出さなかった。
 で、だ。それでだ。そこまではいいんだ別に。俺もそんなに驚かねぇよ。他人の空似なんて幾らでもあるだろうし、ルートヴィッヒって珍しい名前じゃねぇし。往来にぼーっと突っ立ってたら馬車に引かれそうになるのなんて、当たり前だし。
 問題は、センセが往来にぼーっと突っ立つことになった、原因だ。
 真面目にあれこれ考え始めると思考が混乱するから、聞いたことを纏めるだけにする。センセは勤務が終わって、家路を急いでいた。そうしたら見知らぬトンネルがあって、近道な気がしたから入ってみた。ずんずん歩いてトンネルを抜けたら、見たこともない街が広がっていた。
 だからどこのお伽話だよそれ。トンネル1本抜けたくらいでそんなこと起こるか普通。いつもなら頭がおかしい奴の余田話だとしか思わないような内容だ。だが証拠に──本人はなるかならないか分からないがと言っていた──見せられた医療器具やよく分からない機械は、俺の常識には微かも引っ掛からないものばかりだった。注射器一つにしても、何か違ぇ。明らかに技術的な差がある。俺の知る限りじゃ、そういうのを作れる技術はまだない。この国…いや、世界には。
 混乱しつつも何とか事態を把握しようと頭を捻ったセンセが言うには、どうやら何かの加減で違う世界同士が繋がってしまった、らしい。センセの生きている世界は場所的には同じ辺りだけど、俺が生きるこの時より数百年後なんだとか。
 へーそうなんだそれは大変だったね、と、冷静に言える奴がいたら俺の目前に今すぐ出頭して欲しい。面白いことは好きだが、これは面白くない。頭こんがらがって訳分かんねぇ。
 だから俺は理解しようとしたり納得したりしようとするのを、止めることにした。どれだけ考えたところで次々に頭に湧いてくる何でどうしてを片付けられる筈がない。もうこれだけ分かってりゃ十分だと思う。
 俺の前にルートヴィッヒそっくりの男前が現れた。
 実に単純明解だ。ごちゃごちゃ考える必要がなくて大変宜しい。最初からもっと素直に物事を捉えるべきだったな。そうしていたら時間を無駄にすることもなかったのに。
 くるくる思考を続けながら、俺は徐に立ち上がる。難しい顔をしているセンセの前までとことこ移動。何事かと上げられた綺麗な碧眼を見つめながら、体を屈めて唇に触れる。

「っ、何を…!」
「んー? 逃げんなよキスするだけだろぉ?」
「それはだけとは言わん!」

 指で触るまではよかったけど、唇同士は阻止された。ちぇー、残念過ぎるぜ。俺様とキス出来るのがどれだけ凄いことか分かってないなこいつ。分かる訳ねぇか、俺のこと全然知らねぇんだもんな。だからこんな強い態度、取ってられるんだ。ぞくぞくする。
 膝に乗っかろうとするとやっぱり避けられて、俺は空の椅子に跨ることになる。センセは立って椅子の脇に。口を尖らせつつ見上げてみると、その双眸は冷ややかな視線を俺に投げ掛けていた。そういう顔されると凄ぇそそるんだけど、お前俺にどうして欲しいんだよ?
 じっと見ていると、センセは溜め息混じりに声を押し出した。低くて落ち着きのある声もルートヴィッヒと似てて、つまりは俺様好みだ。

「男の癖にドレスを着ているわ突然迫ってくるわ、何がしたいんだお前は」
「取り敢えず今はお前とセックスしたい」

 素直に言ったら拳が降ってきた。危ねぇな、当たったらどうすんだよ。俺様に限ってそんなヘマしねぇけどな。何せ未だにあのトマト馬鹿が投げる赤い爆弾にも当たったことねぇし。
 何かどの順番で説教してやろうか悩んでるみたいな顔で威圧感発するセンセが可愛かったから、隙を見て突撃してやった。いきなり抱き付いてきた俺をしっかり受け止めるくらいの優しさは持ち合わせているらしい。お医者先生の割にはムキムキで、抱かれ心地は最高だった。すぐ引き離されたのがちょっと不満だぜ。もっと抱いててくれていいのによー。
 ま、ややこしいことは抜きにして考えれば、今日はいい出会いがあったと言えるかもしれない。俺の好みど真ん中の奴なんてそうそういないからな。簡単には逃がさないぜ。
 心中でケセケセ笑うと、ちょっと顔に出たのかセンセに怪訝な顔をされた。誤魔化す為にフェイント3段構えでキスしにいったら意外とあっさり捕まった。これは幸先いいかもな、流石俺様。これから覚悟しとけよ、センセ?