「ルッツ、」
抱き締めた体は嘗てに比べれば大分と華奢だった。ギルベルトが衰えたのか、自分が成長したのか。恐らくそのどちらもなのだろう。頬に指を這わされて、俺は目線を上げる。そこには至極嬉しそうな表情をしたギルベルトの顔があった。
どうして笑っていられるのだろう、と思う。もうすぐ消えてしまうのに。この腕の中からいなくなってしまうのに。
「…ルッツ、」
やんわりと押し返そうとする気配に、ギルベルトを掻き抱く腕に力を込める。どう足掻いても消えてしまうなら、せめてその瞬間まで己の腕の中に閉じ込めておきたくて。ギルベルトの肩に額を預けて、深く息を吐く。昔からの癖だ。どうしようもない不安に駆られたりした時、ギルベルトはよく落ち着くまで膝に抱いていてくれた。幼い俺は兄の肩に額を預けて、気持ちの整理がつくまで大人しくしていたものだ。
彼もそのことを思い出したのだろうか、苦笑を漏らす気配があった。そして耳元に寄せられる唇。それは、甘い禁忌の言葉を囁いた。
「なぁ…シて、ルッツ」
行儀悪くソファに寝転んでいたギルベルトに抱き付いたのは勢いだった。彼が消えてしまうのだと知った時に感じた焦燥感に駆られた、勢いの行為。ならばこれも、その延長線上なのだろうか。
薄暗い寝室の中で、肌の白さがやけに目立つ。服を取り払ったギルベルトの体は着衣時に増してほっそりとしていた。本来の彼を失わせてしまったのが自分だと思うと、肌がぞわりと粟立つ。
国という存在である自分たちは怪我が死因になることはまずない。そもそも死という概念が余りない。それに近いものを感じるのは国としての形をなくし始めた時。領土と国民と文化に支えられた己という国が、壊れていく時。国が滅亡すれば、国を体現している者に訪れるのは消滅だ。体など、骨の一欠片さえ残さない。下手をすれば国の歴史さえ長い年月の片隅に忘れられて消えていく。
強くなれと、俺を越えていけと何度も言われた。それに応えたくて努力を重ねた。結果──俺は望まれたように育ち、ギルベルトは望んだように衰えた。何を犠牲にしても辿り着きたかった未来は、一番大切なものを奪うと言う。こうなると分かっていたなら、決してこの道を選ばなかったのに。
「…兄さん、」
俺は上着から袖を抜きながらベッドに膝をつく。既に一人分の体重が掛かっているスプリングが呻くように微かに軋んだ。
薄闇に浮かび上がる白い、華奢な体。自分が食い潰した国の、残骸。愛しくて堪らない、兄の姿。
全てを脱ぎ捨ててその身に触れようとし、暫し躊躇う。触れてしまえばもう後戻りは出来ない、そんな気がした。おいで、とでも言うかのようにギルベルトが微笑む。それはまるで聖母のようで。俺は彼を抱き寄せ、薄く開かれた唇に自分のそれを重ねた。
「兄さん、兄さん…」
「ぁ……っ、ルッツ…」
押し倒した体はその白雪のような見た目に反して温かかい。否、少しばかり熱い、だろうか。これもギルベルトが消えてしまう兆しなのかと思えば、眉が自然と寄る。けれど行為を止めようとは思わなかった。以前から抱いていた親愛を逸脱した慕情がそれをさせなかった。求めてきたのは相手だ、と頭の隅で苦し紛れの言い訳をする。そんな俺の背に、ギルベルトが腕を回してきた。そのままきゅうと抱き締められる。
「、我慢しなくていいから……目茶苦茶に、しろよ」
囁くような口調。蕩けた瞳が俺を、誘う。
どこぞの兄弟と違って、自分たちの兄弟仲は良好だ。互いのことを知り尽くしている、と言っても過言ではない。それはつまり、そういった趣味嗜好も何とはなしに知られているということで。
ごく、と喉を鳴らす。顔を引き寄せられて額に口付けられる、それが合図だった。
「っ…ふ……ぁ…!」
ローション塗れにした指で硬く閉ざされたそこに触れると、ギルベルトは腰を戦慄かせた。反射的にか逃げようとする体を押さえ込み、ゆっくりと指を埋めていく。苦しげに繰り返される呼吸。
それが指がある一点を掠めた瞬間に上擦ったのを、俺は聞き逃さなかった。そこばかりを弄ってやると、見る間にギルベルトは息を乱す。
「やっ…やだ、ルツ……そこ…っ」
「どうして?」
こんなにも気持ち良さそうにしているじゃないか。
そう言って反応している自身をなぞると、ギルベルトは真っ赤になって俯いた。耳まで朱に染めたその顔が可愛らしくて、くすりと笑う。それがますます羞恥を煽ったらしく、彼は完全に外方を向いてしまう。晒された耳は赤いままだ。そこに舌を這わせると、ギルベルトはびくりと体を跳ねさせた。
「…兄さん」
低音を耳に押し込むように囁き掛ける。切なげに眉を寄せたギルベルトが、ほぅと甘い息を吐いた。
キツいくらいに指を締め付けていた箇所から力が抜けた隙に、俺は中を解す為の指を増やす。異物感は大分消えたようで、そこは簡単に根元まで指を飲み込んでいく。熱い、体内。わざと音を立てて掻き回してやると、ギルベルトはその瞳に涙さえ浮かばせた。
あぁ、何て可愛らしい。
「も……い、から…っ」
来いよ、と嬌声の合間に先を強請られる。
俺は深い口付けをしながら、求められるままに本来受け入れるようには出来ていない器官に腰を進めた。ひ、と小さな悲鳴が上がる。先程までに倍する異物感と圧迫感に息を詰めて、それでもギルベルトは口元を笑ませている。俺にはその理由が分からない。肌を合わせた箇所から伝わってくる熱も、鼓動も、直に失われてしまうのに。どうしてそんな風に、していられるのだろう。切望は自然と口から零れ落ちる。
「逝かないでくれ」
「ぁ、あっ…そんな…の、む……んぅっ」
現実を突き付けようとする唇に噛み付くようにして、続く言葉を制す。聞きたくない。こんなにも側にいるのに、消えてしまうなんて信じたくはない。けれどそれは儚過ぎる抵抗だ。刻々と過ぎ行く時は無情に俺たちを引き裂くのだろう。
腰の動きを加速させると、ギルベルトの体はびくびくと跳ねた。甘く掠れた声が必死で俺を呼ぶ。ルッツ、ルッツ、ルートヴィッヒ。その声を聞けるのももう幾分もないのかと思うと、愛しさが余計に募る。俺は細い体をしっかりと抱き締めて、ギルベルト、と滅多と呼ばない兄の名を呼んだ。
「ルートヴィッヒ、 」
深い眠りから、意識は唐突に引き上げられた。目を開けてすぐに視界に飛び込んできたのは天井だ。見慣れないそれにはて、と首を捻り、俺はここがギルベルトの寝室であることを思い出す。寝起きでぼんやりとしていた頭が次第にはっきりしてくる。
そうだ、俺はギルベルトが消えてしまうことを知って。
「兄さん…?」
そこではたと気付く。
腕の中に抱いていた筈の、愛しい彼の姿がどこにも、ない。辺りを見回すが、室内に人影は見受けられない。つい先程まで確かにこの腕の中に存在していたというのに。シャワーでも浴びにいったのだろうか。そんな自分の考えを俺は即座に否定する。腕から抜け出されただけならまだしも、部屋から出ていったなら流石に気配で気付く。
ともなれば、可能性は一つしかない。真っ先に頭に浮かびながら、無意識に目を逸らしていた事象。ギルベルトが消滅する──もしかしたら既に「消滅した」──のだということ。十中八九そうであろう現実を否定したくて、俺はギルベルトの姿を探す。
「、っ」
見付けたのは、見付けてしまったのは、現実を立証するものだった。古ぼけて傷の付いた鉄十字。それがシーツの上に無造作に転がっている。
俺は首元に手をやる。そこにはきちんと鉄十字がかかっていた。この家で鉄十字を身に着けるのは俺とギルベルトの二人。俺のものは首元にある。ならば目の前のそれは、ギルベルトのものだ。就寝時でさえ外さないものが何故そこにあるのか、答えなど一つしかない。
消えて、しまったからだ。ギルベルトが。俺の大切な兄、が。
俺はそっと鉄十字を広いあげる。握り締めたそれには、まだほんのりと体温が残っている。
夢現で聞いた酷く優しい声が耳の奥を、掠めた。
──ルートヴィッヒ、愛してるぜ。
嗚呼、貴方は逝ってしまった
(決して離すまいとした俺のこの腕を擦り抜けて)
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