ギルベルト・バイルシュミットこと俺──プロイセンという国の消滅。その兆しはやけに唐突に現われた。時折空虚を抱えるようになった心、度々去来する過去の記憶、稀に霞んで見える指先。完全な消滅までに幾何も時間はないことを示すそれらを、俺は隠した。誰にも知られたくなかった。特に最愛の弟、ルートヴィッヒには。
けれど隠し通せる筈がなかった。俺とルートヴィッヒは、同じ国という存在なのだ。日々一緒に暮らしていて、相手の変調に気付かない方が難しいだろう。それでも俺はよく隠していた方だと思う。誰が見ても明らかに様子がおかしいと思うまで、ルートヴィッヒは気付かなかった。否、仕事に忙殺されて気付けなかった。若しくは──気付きながら、信じたくないが為に目を逸らしていた。
今、俺の目前にはルートヴィッヒがいる。改まった様子で「話がある」と告げてきたルートヴィッヒは、難しい顔で言葉を紡いだ。どうして何も言ってくれなかったのだ、と。何か出来ることがあったかも、そう言い募るのを俺は遮る。そんな話は聞きたくない。どうせ不可能な、希望だけの話なんて。
「いいんだ。どうせもっと早くに消える筈だった。今まで生きてられたのが奇跡みたいなもんだ」
そうだろ、と同意を求めて笑みを浮かべれば、ルートヴィッヒは眉間の皺を深くする。
あぁ、そんな顔すんなよ。本当のことだ。俺はもっと前に消えちまう筈だった。それがルートヴィッヒに引っ掛かる形で今までズルズル生き延びてきていた。長続きする訳がない、神様のほんの気紛れみたいな延命なんて。だからこれはずっと前から予期していた別れなのだ。
俺はずっと心の片隅で、別れる日が来ることを意識していた。笑っている時も、泣いている時も、抱き合っている時も。ずっとずっと、片時も忘れなかった。覚悟を揺るがせない為に。情けない姿を、見せない為に。ふぅ、とまた指先が霞む。
脳裏を懐かしい記憶が駆け巡って、現状との境界をあやふやにする。タイムリミットだ。俺がこの姿を保っていられるのも、もう1分もあればいいところだろう。
「俺はいいんだよ、ルッツ。……じゃあな」
俺は出来るだけいつものように言う。声は震えていないだろうか。ちゃんと、笑えているだろうか。悲しみはあるよりない方がいいに決まっている。だから俺はどこかの小説みたいな、如何にもな永遠の別れはしない。努めていつも通りに。また明日、そういう気軽さで。
ルートヴィッヒがドン、とテーブルに拳を叩き付けた。その音さえ、俺にはもう別の世界のもののようだ。
「どうして貴方はそんな風に簡単に別れが言えるんだ!」
俺を責める言葉は、やるせなさを存分に含んで吐き捨てられる。俺がもし直に俺は消えるのだと伝えていたら、ルートヴィッヒはどうしただろう。それまでの時間を、どうやって使っただろう。消滅を食い止める方法がないか八方手を尽くして探して、ないという事実が突き付けられたら、俺をベタベタに甘くしただろうか。ルートヴィッヒならやり兼ねない。伝えてから消えるまで、丸々休暇を取るかもしれない。
俺はそれが、嫌だった。そんな甘ったるい時間はいらない。いつも通りでいい。俺は何でもないことで笑い合える日常が一番、好きだ。
「決まってんじゃねぇか……そうしないと別れ辛くなるからだ」
「、っ」
ぼそりと本音を漏らす。ルートヴィッヒは耳聡く聞き取ったようで、ぐっと息を詰まらせた。
だって、そうだろ。俺だって本当は、消えたくなんかない。もっと生きていたい。ルートヴィッヒの側にいたい。離れたくない。もっともっと、幸せな思い出を増やしたい。
けれど、それはどれだけ願っても叶わないんだ。俺は消える。それは確定事項。ほんの少し早いか遅いか、違いがあるとすればそれくらいだ。もうずっと前に、腹は括った。残された時間を精一杯生きようと決めた。
だから悔いはない。未練は、ない。そう思わないと、やっていられない。ざざ、視界に不快なノイズが走る。手を見れば、ほとんど透き通って向こう側が見えていた。時間は一瞬たりとも待ってくれやしない。
「…あぁ。本当にさよならだ。ルッツ、」
やけにふわふわした足取りで、俺は立ち尽くしているルートヴィッヒに歩み寄った。沈んだ表情を浮かべる顔に、そっと唇を寄せる。最期の言葉が果たしてきちんと音になったのか、俺には分からなかった。けれどその代わり、ギルベルト、ルートヴィッヒがそう俺を呼んだのが聞こえた、気がした。
──ルッツ、お前だけは俺を忘れないで。
無情な願い
(そんなことは分かっている、けれどどうか、)