色彩のない世界。ここ最近、俺はずっとそこにいる。今までいた世界と何ら変わらない筈なのに、実際何も変わっていないのに、この世界には色がない。白と黒、その濃淡だけが存在している。目に映るものは皆、真っ黒だったり真っ白だったり灰色だったり。
 ない。どこを探しても見付からない。あの金色も、碧色も。この世界には存在しない。だから俺は渇望する。どこかにある筈の色彩、目に馴染んだそれを。この病床の中、から。
 経済状態が頗る悪いのとイヴァンの奴に痛め付けられた傷で、俺はかれこれ何ヶ月も床から出ていない。脚が萎えてしまうな、とは思うが立ち上がることが出来ない。出来るのは残存した僅かばかりの体力に縋って生きること、それから色を探すことくらいだ。金色と、碧色。あいつの、もうずっと会っていない愛しい人の色。記憶にこびりついたそれは、他が日に日に褪せていくのに比べて、妙に鮮烈に色を残している。それ程記憶に焼き付いているってことなんだろう。そして焦がれている、喉から手が出る程に。

「ギルベルトさん、」

 小さな軋みと共に立て付けの悪い扉が開けられて、ひょこりとトーリスが顔を覗かせた。特段用がない限り、特に何か言い置きたいだけの時は、トーリスは部屋に入ってはこない。細く開けた扉の間から顔を覗かせて、何事か言って去っていく。
 けれど今日のトーリスは、怖々といった様子で室内に踏み込んできた。後ろ手に扉を閉めて、そこからは動かずにトーリスは俺を見つめる。弱り切った、抜け殻のような俺を。
 俺もトーリスに視線を投げるが、やはり奴にも色はなかった。どんな色彩を持っていたのか、確かに何度も見たことがあるのに、上手く思い出せない。色を思い出そうとして脳裏に浮かぶのはいつも、金色と碧色だ。それ以外にはない。

「何の用だ」

 素っ気なく答えると、トーリスは眉尻を下げて苦笑する。すみません、と別に己に非がある訳ではないのに謝った後、何かを口にしようとして言い淀む。自慢じゃないが、俺は気が長い方じゃない。無言で先を促すと、意外な言葉がその口から告げられた。

「もうすぐ壁が、壊れます」

 俺は驚きの余り、暫し呼吸をすることさえ忘れていた。
 壊れる? あの、東西を隔てていた厚い壁が?
 それは俄かには信じられない話だった。実現不可能過ぎて、酒の席の冗談にさえなり得ない内容。そんなことを言ってのける奴は、理性を失っているか──本当にそれが起きることを知っているか、なのだろう。体内を巡る激情。俺はそれが自分のものではないと知っている。俺のものではない、けれど確かに俺の中にある感情。あぁ、それは。
 その混乱に乗じて逃げれば、そう言うトーリスの声が遠い。自身の意思を伴わずに高揚する感情に、頭が割れるように痛む。は、と乾いた笑いが俺の喉を震わせた。

「冗談も休み休み言え。俺が逃げたところでどうにもならねぇだろう」
「…っ、」

 口を噤んだトーリスが、苦渋に顔を歪める。理解出来てはいるんだろう。
 俺が、俺だけが逃げたところで何の改善にもならない。東側に囚われた俺がここから逃げ出せるのは、国民が国土が主権が返還された時。仮に壁が壊れて逃げる機会があったとして、それで助かるのは俺だけだ。そんなことが出来る筈がない。

「このままここにいたらどうなるか、」

 分かってるさ。
 説得しようとするトーリスの声を遮る。イヴァンは十中八九、荒れるだろう。いつもと変わらない仮面の下に、どうしようもない苛立ちをあからさまに浮かばせる。そしてその矛先は俺に向くのだ。これまでの数十年、連綿と続けられてきたように。
 シーツと布団との間で微かに脚を動かすと、刺すような痛みが跳ねた。治り切らないうちに重ねられた傷はなかなか完治してくれやしない。ふとした動きの度にジクジクと疼いて、俺に存在を思い出させる。体に深く深く刻まれた傷。俺に自分の存在を忘れさせない為だとでもいうように、イヴァンが深く深く刻んだ傷。それは脚だけじゃない、全身に広がっている。正直ベッドにいるのも辛い。鎮痛剤なんてものは、俺に与えられる筈もなかった。

「分かってんだよ、そんなことくらい」

 言葉を重ねて、俺は視線を彷徨わせる。
 どこもかしこも、味気ない黒と白で塗り潰されている世界。逃げ出してしまいたいと、何度思ったか知れない。けれどその度に、希望はイヴァンに踏み躙られた。粉々に砕かれた。また心の奥に生まれかけた希望と期待から、俺は目を逸そうとする。
 それは完遂され、なかった。

「ギルベルトさん…っ」

 言うことを聞かない脚に鞭を打って立ち上がると、ぐらりと体が傾ぐ。
 ハッとして駆け寄ってきたトーリスに支えられた。長らく正面に動かしていなかった脚は傷のせいもあって、自重に堪えることさえ難しい。引き摺るようにして一歩踏み出すと、体を刺し貫くような痛みが跳ねた。息が上がる。扉に辿り着く頃には、俺はびっしょりと脂汗を掻いていた。トーリスの肩を借りていなければ、この僅かな距離さえ歩くことが難しかっただろう。
 チラリと俺を無言で支え続ける奴の顔を見れば、その顔には悲痛な表情が浮かんでいた。うっかり昔の俺と今の俺を比べてしまったのかもしれない。俺は喘鳴に近い息に交ぜて自嘲の笑みを零す。そうだ、確かに俺は目も当てられない程に憔悴した。だがそれが何だというのだろう。全て自分が選んだ道だ。俺はあいつが健やかで、いつまでも平安でいてくれればそれでいい。我が身など顧みようとは思わない。
 何度か頽れかけながら、それでもどうにか建物の外に出る。ずっと室内にいた俺には、薄日さえもが真夏の強烈な陽光のように感じられた。

「……兄、さん?」

 鼓膜を揺らした驚きと歓喜を含んだ声に、俺は俯いていた顔をばっと上げる。路地から出てきたばかりのその姿を確認した途端、そこを中心に一気に色彩が戻ってくる。眩い金色と、済んだ碧色。
 俺はトーリスの腕を振り解いて、自分でもどこにそんな力を残していたのかよく分からない──ルートヴィッヒに駆け寄った。倒れ込むようにして抱き付けば、俺の体はしっかりと抱き留められる。逞しい体。腰に回される腕。あぁ、本当にルートヴィッヒだ。ずっと焦がれていた、こうして抱き合うことを。

「ルッツ、ルッツ…ルートヴィッヒ…」
「ギルベルト…」

 触れ合う体から伝わってくる鼓動は早い。俺の名を呼ぶ声は、僅かに息を切らせていた。壁が壊れたところからこちら側に来たんだろう。そうでなければルートヴィッヒがここにいる筈がない。それにしてもこのムキムキが息切れするなんて、どれだけ俺を探し回ったのだろう。こうして出会えたのは奇跡に近いのかもしれない。
 視線を上げると漸く色彩を取り戻した目が、碧眼にうっすらと涙が浮かんでいるのを捉える。俺はその目尻に口付けて、口の中でそっと呟いた。

「もう少しだけ待っててくれ、ルッツ」






灰色の日々にさよならを
(お前がいるだけで俺の世界はこんなにも輝く)
(だから必ず帰ると、約束しよう)






20000hit企画
壁崩壊日に再開、再統一日に家に帰った感じ。