「ルッツ、いるか?」

 軍靴の音を響かせてやってきたギルベルトは、廊下からひょいと俺の部屋を覗き込んだ。いることなど百も承知だろうに。この時間、俺がデスクワークをしていないとなれば、相当の緊急事態だ。こんな風にギルベルトがやってこられる筈がない。

「どうした、姉さん」
「“兄さん”な。家以外じゃ呼ぶなって言ってんだろ」

 きっちりと軍服に体を包んでいればそう分からないが、ギルベルトは俺の「姉さん」だ。
 俺と同じ色の硬い短髪、俺より少し紫掛かっている碧眼。髪は適当に切り揃えてあるだけだし、眼光はそこらの男より余程鋭い。だが確かに、彼の正体は彼女であるのだ。俺はそのことをよく知っている。
 幼い頃はもう少し、ギルベルトも女らしいところがあったように思う。それを直隠しにして男に徹するようになったのは、兄さんと俺に呼ばせるようになったのは、いつからだったろう。

「それで、どうしたんだ?」
「あぁ、追加の資料と書類持ってきた」
「………上も人使いが荒いな」

 ドサリと机の上に置かれた紙の束は、優に5センチにはある。勤勉を自負している俺とて目を逸らしたくなる量だ。小さく溜め息を吐く俺に、ギルベルトはさもおかしそうにクスリと笑いを漏らす。

「お前は生真面目過ぎんだよ。もう少し肩の力抜けって」

 あんまり根詰めるとそのうちぶっ倒れるぞ。
 ぐりぐりと眉間の皺を伸ばされて、俺は別の意味でまた嘆息する。触れてくる指はこんなにも細いのに。どこからあんな力が出るのだろう──戦場のギルベルトというのは、鬼神か何かに見えることさえある。戦う為に生まれてきた存在というのが大きいんだろうか。

「貴方は力を抜き過ぎだ。この前の会議、居眠りしていただろう」
「だってつまんねぇんだもんよー」

 ぷう、とギルベルトは唇を尖らせる。その襟章を何だと思っている、と言いたいのを俺は抑える。本人にだって一応は自覚がある筈なのだ。仮にも親衛隊を預かっているのだから。
 俺とは違って不真面目な姉の顔を見ていると、唇が荒れていることに気付いた。ギルベルトがそういうことを気にしなくなったのは──いや、昔から余り気にしていなかったか。もう少し髪が長くて、柔らかく笑っていた頃も、思えば彼女はそんなことにはとんと無頓着だった。暇さえあれば俺にあれこれ指南していたくらいだ。

「──姉さん」
「だからお前何回、」

 俺を窘めようとしたギルベルトの言葉は、途中で途切れる。困ったように寄せられる凛々しい眉。あー、うー、と犬か幼子のような呻きを漏らしたギルベルトは、ぐしゃぐしゃと自分の髪を掻き混ぜる。その後、諦めたように彼女は俺のすぐ脇までくる。

「そんな顔してんじゃねぇよ。ったく、いつまで経ってもそういうことは変わんねぇなお前」

 ぎゅう、と抱き締められた。座ったままの俺の頭は、丁度ギルベルトの腕の中に収まる。持たれ掛かる形になった胸は、布できっちりと押さえ付けられていても僅かに柔らかな感触があった。
 ギルベルト──姉さん。
 彼女が彼女でいられないことを、俺は好ましくないと思っている。本当は銃にもナイフにも触れさせたくはない。ギルベルトにそんなものは似合わない。軍服など脱ぎ捨てて、もっとちゃんと女らしく。けれどそう思うのはきっと俺のエゴでしかないのだろう。

「俺は好きでやってんだ。いい加減に分かれよ、ルッツ」
「姉さん、俺は」
「お前の理屈は聞きませんー」

 えいっ、と首を固めて、ギルベルトはニヤリと口元を吊り上げる。
 その悪戯っぽい表情に俺は続けようとした言葉を飲み込んでしまう。言いたいことはいくらでもあるのに、どうにも俺はギルベルトには適わないらしい。
 むすりと顔を顰めると、彼女はけらけら笑って俺の額に口付けを落とした。あの頃と全く変わらない、所作で。そして彼女の唇もやはり、同じ言葉を紡ぎ出す。

「愛してるぜ、俺の可愛いルッツ」






かつて、貴方はマリアだった
(神聖にして崇高なる我が姉君)
(口付けならばどうか親愛よりも、)






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