あの頃、俺には決して手放せないものが2つあった。
1つ目は日々書いている日記──が、最早育児記録になってしまっているもの。
2つ目は表情の乏しいガキ──俺の腰辺りまでしか背丈のない、地盤が非常に危うい国。
その2つはどちらとも厄介だった。日記の方は今更出てきてしまって気不味いという意味で、ガキの方は当時少しでも目を離すと体調を崩したという意味で。
何で俺がこんな遥か昔の日記を眺めて過去の記憶に思いを馳せているのか。それは、ルートヴィッヒが俺に掃除を命じたからだった。膨大な量の本、主に俺が書き溜めた何百冊にも及ぶ日記が並ぶ、ほとんど使われない書斎。最早ただの書庫と化している部屋は、人の出入りがない為に埃が積もっていた。というか埃の王国になっていた。扉を開けただけで舞い上がったそれから、俺は全速力で目を逸らした。
逃げようともしたのだが、ルートヴィッヒはそれを許してはくれなかった。ガッと物凄い速さ且つ力で俺の肩を捕まえたルートヴィッヒは、やけに清々しく笑った。それが死刑宣告にも近いものであるということを、俺は存分に理解している。己の身をもって、専ら、ベッドの上で教えられたので。地獄の悪魔も裸足で逃げ出すような顔で、ルートヴィッヒは言葉を紡いだ。
俺には触るなというのだから貴方が掃除をしろ、兄さん。これ以上埃の侵食を放っておく訳にはいかない。
そんなことを言われて、掃除道具を渡されて、俺は大人しく掃除を開始するしかなかった。最初の方は比較的真面目にやっていたのだが、途中で昔を懐かしんで1冊本棚から引っ張り出してしまったのが不味かった。そんなこともあった、そういえばあんなことも、なんて考えながらパラパラ捲っていくうちに、俺の周りには日記の小山が出来ていた。
そして行き当たった、育児記録。あの頃の日記は本当に日記の体を成していなくて、書かれているのはガキのことばかりだ。今はすっかりデカくなって、軽々と俺を抱き上げられるようにまでなった、ルートヴィッヒ。あいつは2世紀と少し前の頃、何とも頼りなかった。国の体形も、体調も。何もかもが不安定で、放っておくとうっかり消えてしまいそうな勢いだった。
だから俺は仕方なしに戦場にもルートヴィッヒを伴った。何の役にも立たないガキを抱えて戦うのは異様なまでに骨が折れたが、実地教育が出来たのは怪我の功名だったといえるかもしれない。子連れの騎士なんて恰好悪くてしょうがないと思ったものだが、本当に、そうするより他に仕方がなかったのだ。半世紀も経てば少しは成長して手が掛からなくなったが、それでも俺はルートヴィッヒを連れ歩いていた。それは教育の為でもあったし、まだごくたまに発作的な体調不良を引き起こしたからでもあった。だからその頃の日記にもまだ、育児記録的な部分が残っている。
その色が完全になくなるのは、そこから更に四半世紀。フランシスのところでヴィルヘルムがドイツ皇帝として即位した頃だ。保護者として兄としてルートヴィッヒに接していた俺は、その時初めてあいつに跪いた。昔からずっと、俺の役割は幼い王を守り育てる騎士だった。けれど態度でそれを示したのは、その時が初めてだった。俺は至上の冠を頂いたまだうら若い帝国に、恭順の意を示した。それはプロイセンという国としてであり、ギルベルトという人としてでもあった。その頃から、俺の日記から育児記録的な部分は消えた。
代わりに現れたのは、兄馬鹿としか言えない記述。かなり重傷なのは分かっているから指摘しないで欲しい。強大な帝国となってなお、次第に衰えていく俺を兄と慕ってくれるあいつが可愛くてしょうがなかったんだ、あの頃の俺は。即位式の時あんなに慌てて俺に顔を上げてくれと請うたルートヴィッヒが、その約1世紀後に俺を笑顔で跪かせるようになるとは思わなかったが。
というかそもそも告白されるなんて夢にも思っていなかった。冷たい時代が終わった、忘れもしないあの日、ルートヴィッヒは俺を抱きすくめて囁いた。愛している、兄さん、もう離さない。震えていた声の切実な声音にまんまと絆されて、俺はあれよあれよという間にルートヴィッヒとそういう関係に、なった。なってしまった、ともいう。
ルートヴィッヒと引き離されてからの、この方半世紀、俺は日記を書いていない。向こうにいる時は書くような余裕がなく、途切れてしまったら書く気が起きなくなってしまったからだ。だから日記の最後の日付は、半世紀前の分割の日。後は真っ白なページが続くのみ。最後の日記が余りに事務的で感情を押し殺しているのが丸分かりで、俺は自分の事ながら笑ってしまう。
あっちに行くと決めたのは自分なのに、何でこんなに嫌そうなんだか。そんなの決まってる、立派に育ったって昔は病弱だった弟が心配だからだ。本当に、兄馬鹿もここまでいくと重傷というか致命傷だとさえ思う。
フランシスなんかにはいい加減に弟離れをしろと諦め半分に言われることがある。が、出来る気がしない。昔も今も、俺の弟というのは可愛くて手が掛かる存在なので。
「兄さん、そろそろ夕食の時間だが………、何だその山は」
「げ、ルッツ!
いやその、懐古に耽ってたら知らない間にこうなってたというかだな」
「俺は掃除をしろといったんだ、余計にちからしてどうする!」
扉から顔を出したルートヴィッヒが額に青筋を浮かべる。
怖ぇよお前。俺だってしまったと思ったんだよ。思った時には既にこんなことになってたけどな。
前言撤回。俺の弟というのは、可愛くないし手も掛からない。だがしかし何故だか憎めないものだから、俺はこいつから離れられないのだ。離さないと向こうに宣言されてもいるし。
「明日こそきちんと掃除をしろよ。終わったら好きなものを作ってやるから」
「ならホットケーキ焼けホットケーキ!
まだメイプルあったろ」
「本当に終わったらな」
「あのくらい俺様に掛かれば一瞬で片がつくぜ」
食堂に向かいながら、ケセセ、笑みを漏らすとルートヴィッヒも淡く笑う。俺が未だ弟離れ出来ないのは、ムキムキに成長してしまった弟の男臭い笑顔に不覚にも惚れたからじゃあない。
と、兄のメンツを守る為に言っておこう。
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