ある日、家に帰ると見慣れない鉢植えが窓辺に鎮座していた。
ルートヴィッヒはその決して小さくはない異物を見逃すことが出来なかった。日中家にいるのは兄だけであるから、そこに鉢植えを置いたのは彼なのだろう。特に植物に興味もないだろうに、どうしてこんなものを。
事情を聞き出すべくルートヴィッヒはギルベルトの姿を探す。が、リビングにもダイニングにもその姿は見当たらない。一体どこにいったんだ、とルートヴィッヒは眉根を寄せる。ギルベルトは何かしらの用事で出掛ける時、書き置きなりメールなりをする。それがないということは外出しているのではないのだろう。
逃亡ならまた話は別だが、理由がない。ギルベルトが自分でこの鉢植えを買ってきたとして、自分の行いにルートヴィッヒが怒る、などということは微塵も考えなかったろう。ルートヴィッヒとて鉢植えが1つ増えたくらいで怒る気はない。
兄の行方を探したのは、それが余り見ない類の植物だったので気になったのだ。近付いてみるとそれは葉がふっくらとしている──所謂多肉植物のようだ。白い花芽がついているが、それはまだ綻ぶ気配を見せていない。この植物は一体、何なのだろう。
ルートヴィッヒが葉に向かって手を伸ばしかけた時、ガチャリとリビングの扉が開けられた。
「何だ、帰ってたのかルッツ。お帰り」
「あぁただいま…じゃない。兄さん、何なんだこれは」
小振りな如雨露を片手に部屋に入ってきたギルベルトに、ルートヴィッヒは鉢植えを示す。
ギルベルトはきょとりと目を瞬かせて首を傾げた。その様子はどうして叱られているのか分かっていない子猫のようで実に可愛らしい。が、今はそんなことは関係ない。ルートヴィッヒは思考から雑念を追い払う。
「何って、花だろ花」
「それは見れば分かる。貴方が買ったのか?」
「いや、エリザベータが持ってきた」
エリザベータが持ってきた。
「エリザベータ」が「持ってきた」?
ギルベルトの口から出た言葉がいまいち飲み込めなくて、ルートヴィッヒは暫し動停止する。
事実確認。兄、ギルベルトとエリザベータは決して仲がいいとは言えない。会えば何かしらの対立が起こる。エリザベータからギルベルトに最近贈られたものは、フライパンの鉄拳制裁くらいのものだ。エリザベータが花を持ってきた。エリザベータがギルベルトに花を持ってきた。
結論、とても信じられない。しかしながらギルベルトが嘘を吐かなければいけないような理由は、思い当たらない。たとえこの鉢植えがフランシスからのものでもローデリヒからのものでも、大して問題はない。イヴァンからだった場合、何か裏があるのではないかと訝るくらいだ。
ルートヴィッヒは眉間の皺を深くする。エリザベータが、ギルベルトに、花。相手の名前がローデリヒならば非常にしっくりくるのだが。
「月下美人とか言うらしいぜ。夜に咲いて朝には萎んじまうんだとさ」
ルートヴィッヒの様子を気にした風もなく、ギルベルトは鉢植えの側に如雨露を置く。姿がなかったのは納戸だか倉庫だかに如雨露を探しにいっていたのだろう。庭の草木に水を撒くのにはホースを使っているから、仕舞い込んであった筈だ。それを裏付けるように、如雨露にはうっすらと埃がついている。綺麗に払ってから持ってこない辺りがギルベルトらしい。
「…月下美人、」
「そ。寒さに弱いとかで中に置いとけって煩くてよー」
ルートヴィッヒが口の中で呟いた言葉はギルベルトに届いたらしかった。軽く相槌を打った彼は、その時のことを思い出してか微苦笑する。
月下美人。名前だけは耳にしたことがある。否、確か菊のところに行った時に実物も見掛けた筈だ。白い、花。夜に咲いて朝には散る、珍しい花。桜と少し性質が似ていると言っていた菊の声が耳に蘇る。
ルートヴィッヒは少し考えて、間近に立つギルベルトに問いを投げる。
「どうしてエリザベータはこれを兄さんに?」
「さぁな。俺が知る訳ないだろ」
返ってきたのは、予想した通り素っ気ない言葉だった。
実のある言葉を期待していた訳ではないから、ルートヴィッヒはそれ以上追及をしなかった。したとしても、ギルベルトは本当に理由を知らなかっただろう。
「ルッツ、ルーッツ、ルッツっ!」
書類の向こうから声を掛けられること30秒弱。
遂に手が伸ばされて、ルートヴィッヒは手にしていた書類をひったくられた。ギルベルトにしては相当耐えたのだろう。視界を塞いでいたものが消えて網膜に映った彼の顔は、どう贔屓目に見ても拗ねかけていた。
今日中に片付けてしまいたいから持って帰ったんだが。そうは思いつつも話を聞いてやらねば書類は返ってこないのだろう。重要資料を破り捨てられでもしたら事だ。ルートヴィッヒは溜め息混じりに口を開く。
「どうしたんだ、兄さん」
「遅ぇよお前!
お兄様の話をちゃんと聞け!」
「だから聞いてやってるだろう。どうした?」
きゃんきゃん鳴くのを黙らせてやりたい衝動に駆られながら、ルートヴィッヒは努めて優しい声を出す。むぅ、と唇を尖らせながら、ギルベルトは仕事を邪魔しにきた理由を率直に告げた。
「…咲いたんだよ、月下美人」
月下美人。
彼が1週間程前にエリザベータからもらった花だ。
サボテン科の多肉植物で原産地は中米から南米。夏から秋にかけて白い花をつけ、花は夜に咲いて朝には萎む。寒さに弱く、最低温度を6〜8度に保つ必要がある。
等々は、ルートヴィッヒがあれから気になって調べてみた結果分かったことだ。調べたといっても主に来歴と育て方くらいのもので、他に目についたのは花言葉くらいだった。普段は特に目につかないそれ──月下美人の花言葉は、儚い美。それは果たしてギルベルトに対する当て付けなのか、何なのか。エリザベータがそれを知っていたかは定かではないけれど。
それにしてももう咲いたのか、とルートヴィッヒは思う。確かに蕾はついてはいたが、まだ硬いように見えた。
「意外に早かったな」
「俺様が世話してやってんだから当たり前だぜ」
ケセセ、と得意げにギルベルトが笑みを漏らす。珍しく小忠実に世話をしていたようだから、咲いたのが嬉しくてしょうがないのだろう。まぁ彼のやっていたことといったら水やりくらいで、温度を気に掛けたりはルートヴィッヒがしていたのではあるが。そもそも育て方を調べたりしていない筈だから、適切な時に水をやっていただけでも褒めてやるべきなのかもしれない。
自分がもらった花なのだからそれくらい普通だ、とは言わない。自分から読み始めた本にさえ、くしゃみ一つで飽きてしまうような人なので。
「それは関係ないだろう…」
「いいから見にこいよ」
ぐいぐい袖口を引っ張られ、ルートヴィッヒは書斎から連れ出される。
リビングに近付くと甘い香りが鼻を擽った。数日前から微かに薫っていた匂いだ。丈が1メールと少しばかりある月下美人は、月光に照らされて窓辺でその花弁を惜しげもなく開いていた。蓮や彼岸花に何となく似た形に、月光を凝り固めたかのような白。首を擡げた姿はまるで月を請うている風にも見える。
「な、綺麗だろ?
けど朝には散っちまうんだよな…勿体ねぇ」
言いながらギルベルトが身を屈めて花の一輪に手を伸ばす。顔を寄せて香りを嗅ぐその様子に、ルートヴィッヒは軽く目を細めた。
月下美人
(儚いのは花なのか、貴方なのか)
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