さわ、と風が吹いた。開けている窓から余り涼しいとは言えないそれが入り込んで、カーテンを揺らす。俺は本に向けていた視線を上げて窓の外を見遣る。そこには見た目だけは涼しげな景色が広がっている。
俺が今いるのは、夏になるとやってくる別荘の一つだ。仕事の関係でいつものバケーションの時期から少しずれてしまったが、それでもここに来ないという選択肢は浮かばなかった。何故なら、ここには。
「まぁーた本なんか読んでんのかよ、ルッツ。な、河行かねぇ?」
ここには、消えてしまった筈の最愛の人がいるので。
「残留思念の寄せ集めみたいなもんなんだと、思う。何でここなのかとか今なのかとかとかは、さっぱり分かんねぇけど」
何年前のことだったか、昔を懐かしんで別荘を訪れた俺に、突然目の前に現われたギルベルトは、そう言った。
残留思念の寄せ集め。残留思念──それはやはりギルベルトが消えてしまったのだということを現していた彼が蘇ったのではないかと心を浮つかせた俺は、その説明に大層落ち込んだ。だがギルベルトはちゃんとした実体を持っていて、触れたし俺以外の人間にも見えているようだった。
暫くは消えないという当人の言葉通り、ギルベルトは俺が帰る予定日の前日まで、普通に過ごしていた。異変が起きたのは俺が帰り支度を始めた、最後の日の昼頃。ジワジワと透けて空気に溶けていくような様は、あの日の消滅に重なるようだった。逝かせまいと伸ばした手は虚空を掴んで、俺はまたギルベルトを失うのかと、絶望した。
そんな俺に、兄は穏やかな顔で笑った。
「また来年、ここに来いよ。待ってるからな、ルッツ、待ってる」
囁きは夏の暑さに滲んで溶けて、それでも俺の耳にしっかりと残った。
そして次の年、同じ時期に現われた俺に、さも当たり前のように現われたギルベルトは笑ってみせた。
「だから言っただろ、待ってるって」
俺は堪らずに、持っていた荷物を投げ出してギルベルトを抱き締めた。
それからもう何年になるか、夏になるとこうして別荘に訪れるのは、最早習慣となっている。たとえ幻覚でも亡霊でも、俺はギルベルトに会えることが嬉しかったのだ。夏の短い期間の為だけに他の日々を過ごしていると言っても、恐らくは過言ではないだろう。
「な、河行かねぇ?」
本の向こうからこちらを見るギルベルトは、変わらない仕草で俺の顔を覗き込む。わざわざ屈んで、掬い上げるような視線。所謂ところの上目遣いというやつに、兄の場合は特段に、俺は弱かった。心拍数が少しばかり上がったのを努めて隠しながら、俺は平静を装って口を開く。
「河?」
「お前は小さかったから覚えてねぇかもな。一緒の馬乗って遠駆けしたの、記憶にあるか?」
言われて俺は随分と昔の記憶を頭の奥底から引っ張り出す。
ギルベルトと遠駆けをした記憶は数え切れないくらいにある。が、一人で馬に乗れない頃となると限られてくる。更に河の記憶があるというと。
「………夏の盛りで、二人揃って耐え切れなくなって水浴びしたあれ、か?」
「何だ、覚えてんじゃねぇか。それこの辺なんだぜ。大分変わっちまってるけどな」
「あれはこの辺りだったのか…言われて見れば面影がなくもないような」
改めて視線を外に向けて、俺は考える。
幼い頃と今では目線が違うから気が付かなかったのだろうか。ギルベルトの不在は──余り関係ないだろう。成長してから彼と何度も足を運んでいる。にも拘らず、何故ギルベルトは今その話題を出してきたのか。その脈絡のなさが、俺には理解出来ない。
「それで、どうしてそんな話に?」
「思い出したんだよ唐突に。さっきうとうとしてたら夢に見たんだ、その時のこと」
あぁ、そうだ。ギルベルトというのはいつでもこうだった。ふとした思い付きで何かをしたがる。俺はそれに閉口している素振りをしつつも、いつだってそんな兄を愛しく思っていた。それは俺に絶対の信頼を寄せてくれているからこその、我儘だったから。
早く行くぞと急かされて、栞を挟む間も与えられず家の外に追い出される。ちゃっかりと鍵を持っていたギルベルトが戸締まりを確認してから最後に玄関を締める。
そして俺たちはゆっくりと田舎道を歩き始める。舗装などされていない道は照り返しを随分と弱めてくれるが、それでも夏の日差しは暑い。ぎらぎらと照り付けるそれに負けて、暫くすると自然に木陰の中を歩くようになる。直射日光を浴びないというだけで随分と体感温度は変わる。
上機嫌に鼻歌を歌っていた隣のギルベルトがするりと腕を絡めてきた。肌に触れる体温は気温に反して、低い。それが長い間あの北国に捕らわれていたせいなのか、若しくは生きていないせいなのか、俺には判断がつかない。俺が漸くギルベルトと再会した時、彼は既にその体温をしていた。
「この辺りはそんなに変わってねぇんだな……お、冷て」
「そのまま入る奴があるか。せめて靴くらい脱げ、兄さん」
導かれるままに獣道を抜けると、そこには清水を湛えた河が横たわっていた。
ギルベルトは腕を解くと子供のようにその中に入っていく。お前も来いよ、無邪気な笑顔に誘われて、俺も水に足を浸した。勿論その前に靴と靴下を脱いで、スラックスの裾を捲っておいたが。濡れるのを気にする様子がないギルベルトは、悪戯に俺に向かって水を飛ばしてくる。けらけらと笑う様は、本当に、健在な頃と何も変わっていないように見えた。
「見ろよルッツそこ…、うぉ?!」
何かを発見したらしいギルベルトが勢いよく俺の方を向き──体がぐらりと傾いた。
水面に倒れていくのが、スロー再生をしているかのようにゆっくりと見える。
「っ、兄さん!」
俺は慌てて手を伸ばした。指はだらしなく開けられたシャツの襟を掴んだが、それくらいでは支えることが出来ない。倒れゆくギルベルトに引っ張られる形で、二人で盛大に河に突っ込む。
派手に水飛沫が上がるが、水深がそこまで深くなかったのが幸いした。川底に手を突いて身を起こすと、尻餅を突く形になったギルベルトも立ち上がろうとしているところだった。
「大丈夫か、兄さん。驚かせないでくれ」
「ちょっと足滑らせただけだって。それよりお前は怪我とかしてねぇか?」
「あぁ、全身ずぶ濡れになったくらいだ」
立ち上がるとポタポタと水面に雫が滴り落ちる。全身が水に突っ込んだせいで下着までぐっしょりと濡れてしまっていた。前髪まで水分を含んでいて、動く度にぱさりと落ちてくる。濡れてしまったものは仕方がないか。もう全身濡れてしまったのだから、気が済むまでギルベルトに付き合ってやろう。
そう思って彼の方を見ると──ギルベルトはシャツの裾を絞りながら川岸に向かって歩を進めていた。
「もう帰るのか?」
「お前そんなびしょ濡れで風邪引いたらどうすんだよ」
何回も引いてんだろ夏風邪、言われて俺は首を捻る。風邪などここのところ、経済状況から来るもの以外は引いていないのだが。幼い頃のそれも、どちらかと言えば体を冷やしたなどが原因ではなく、国内情勢の不安定さから来るものだった。俺はそういったもの以外が原因で深刻な体調不良に陥ったことが余りない。それは兄が、ギルベルトが常に気に掛けてくれていたからだ。
早く帰るぞと責っ付かれ、俺は苦笑しながらギルベルトの後を追う。水を吸った衣服が張り付いて何とも気持ち悪かったが、不思議と気分は悪くなかった。
「なー、お前今年はいつまでいるんだ?」
その日の夜、ソファに座って俺の肩に頭を預けていたギルベルトが、ふとそう漏らした。
まったりと流れる時間に罅を入れるような言葉に、俺は眉を寄せる。その言い方ではまるで、俺がいたら不都合があるようではないか。待っていると言ったのは、ギルベルトの方だというのに。毎年毎年、また来年な、と俺と別れる癖に。
「…俺がいたら困ることでもあるのか」
「困るっつーか、まぁ、なぁ」
ギルベルトは曖昧に言葉を濁してしまう。俺はそれが嫌で、彼の頭を退けて真正面から向き合った。急な行動にギルベルトは目を瞬かせて、それでも真っ直ぐに俺を見返してくる。
瞳の色は紅、見慣れない、色。それでも、確かに彼は俺の兄であるのだ。中身は何も変わっていない、何も。
どうした、と軽く首を傾げるギルベルトに、俺は重い息と共に言葉を投げ掛ける。
「俺がここにいるのは、迷惑か」
「は?
何でそうなるんだよ」
「それなら何故いつまでいるのかなんて」
そこまで言った時、べしりと頭を叩かれた。小突く程度の衝撃は、それでも酷く強く俺を打った。ギルベルトの顔が、真剣そのものだったから。
「馬鹿かお前。何で俺がお前を迷惑だとか思うんだ。そういうんじゃねぇ」
「そうでないなら、」
俺の追及を制して、ギルベルトがまた肩に頭を預けてくる。背に腕を回されてやんわりと力を入れられ、俺は反射的に抱き返した。
微かに薫るボディーソープは、俺と同じものだ。服を代えるついでにと浴びたシャワー、その時に使ったもの。ギルベルトが確かにここにいて触れられると思うと、妙に心が安らいだ。
それは仮初のもので、いつ消えてしまうとも分からない不確かなものではあるのだが。
「お前、今年来るの遅かったろ」
「それは仕事で」
「分かってる。多少は調整出来るようになったけど、あんま無理するとヤバいんだよ、俺」
「兄さん、何のはな」
「お前がいる時にさ、消えたくねぇじゃん。だから聞いたんだ、いつまでいるのか」
俺はハッとする。
夏のごく一時期しかこうして姿を保っていられないギルベルトは、その時が来ればまた実体を無くす。初めて会った、あの時のように。俺が余りにも慌てて逝かせまいとしたものだから、ギルベルトは気を遣っているのだろうか。思えば、あれ以来一度も彼が消えていく様を見ていない。
ギルベルトの姿が消えるというのは、俺にとってはトラウマに近いのだと思う。幼い時も、壁が出来たあの時も、冷たい体を抱いた時も。俺を襲ったのは、どうしようもない恐怖と絶望だった。それを少しでも感じさせないようにと、ギルベルトは考えたのだろうか。
「兄さんがここにいられる日まで、いてもいいか?」
「……いいぜ、この甘えため」
ケセセ、ギルベルトは笑って、俺をしっかりと抱き締めた。
夏の幻
(あぁこの熱が永遠に消えてしまわなければいいものを)
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