少しずつ、少しずつ、記憶が剥離して落ちていく。俺が培ってきたもの、歴史も文化も、何もかもが思い出せなくなっていく。
 それは緩やかに死んでいくことと同義だった。長い生、その産物を失ってしまうというのは、自分ではなくなるのと何ら変わりない。自己の死。全て忘れてしまって、その後に生まれるのは、何なのだろう。俺の形をした全く別のもの、人はそれを俺の名前で呼び続けるのだろうか。ギルベルト、と。使い古したその名で、呼ぶのだろうか。本当に。ルートヴィッヒでさえ、も。

「兄さん、」
「………ルッツ」

 静かに掛けられる声に俺の思考は疎外される。
 緩慢に振り向けばそこにいる弟。大丈夫、まだ分かる。忘れてない。ルッツ、ルートヴィッヒ、俺の可愛い弟。そして俺の、恋人。

「あんまりじっとしているから何事かと思ったぞ。考え事でもしていたのか?」

 優しい声音は、いつもより俺の鼓膜を優しく揺らす。
 最近ぼぅっとしていることが多いから、心配してくれているんだろう。俺はまだ自分に起きている事態をルートヴィッヒに話していない。こんなこと話したら、ルートヴィッヒは取り乱すだろうから。
 ドイツ帝国成立後、俺の体調が非常に不安定だった時もそうだった。消てしまいそうになる度に、死ぬな置いていくなと俺を苦しいくらいに掻き抱いた。その時の感覚を俺は嫌というくらい明瞭に覚えている。
 だから俺はなかなか言い出せなかった。あんな思い何度もしたくはないし、それはルートヴィッヒだって同じだろう。

「あぁ…ちょっとな。どうかしたのか?」
「ローデリヒが持ってきたトルテがあるからお茶でもどうかと思ったんだが」

 その言葉に目を時計に遣ると、時刻は丁度お茶時になろうとしてた。随分と長い時間惚けていたらしい。常に騒いでいる方でもないがそう大人しくもしていないから、椅子に腰掛けて微動だにしない姿はさぞ異様に映ったろう。しかも本を開いているでもないし。
 俺は軽い所作で立ち上がり、ぐっと伸びをする。それからルートヴィッヒをおいて歩き始めた。何も言わずにすたすた部屋を出て行こうとする俺に、ルートヴィッヒは困惑の視線を投げてくる。
 俺は努めて明るい声を出した。

「何してんだよ、食べるんだろトルテ」

 早く来ないと俺様が全部食っちまうぜ、にやりと笑えばルートヴィッヒは少しだけ表情を緩めた。
 けれどその顔は、未だ疑問の色を映している。この頃の俺のことを不審に思っているんだろう。隠し切れていない自覚は、多少ある。
 昔からルートヴィッヒは俺の隠し事を見抜くのが上手かった。どれだけ俺ばっかり見てたんだという話だが、とにかく俺がルートヴィッヒに隠し通せたことというのは、ごく少ない。負傷の類が一番早く見破られただろうか。ちょっとした動作の変化にまで気付くとか、我が弟ながらちょっと偏執的なんじゃないか。俺としては行く先が非常に不安だ。というかもう既に手遅れなような気がして悲しい。俺はどこで間違えたんだろう、こいつの教育。ダイニングに向かう途中、ひょっとしてとリビングを覗いてみる。
 そこには案の定、既に用意された皿やカップが並んでいた。相変わらず用意がいいことだ。台所では薬缶に掛けられた湯が沸騰寸前で止められているのだろう。
 俺は余計な手出しは邪魔なだけだと心得ているから、ソファに座ってルートヴィッヒが来るのを待つ。出来のいい弟はちゃんとティーポットを片手に現われた。綺麗な紅い液体がカップに注がれて、俺は待ってましたとばかりにトルテに手を伸ばす。坊ちゃん自体はそう好きじゃないが、坊ちゃんの焼くトルテは好きだ。今回のは我が家で焼かれたものではなく、台所を破壊されていないから尚いい。

「兄さん、」
「んー?」

 もごもごトルテを咀嚼しながら、俺は気のない返事を返す。
 ルートヴィッヒは言い難そうに口を蠢かせる。そうやって言うのを躊躇う言葉がルートヴィッヒの口から出たのを聞いたことが、俺は数える程しかない。今回の場合は出されても困るから、先手を打って封じ込めてしまうことにする。つくづく俺は狡い。狡猾だと周りから評価されていただけはある。そう自分でも思う。
 そうだ、俺は狡いのだ。国として表立って立ち回る必要がなくなっても、尚。だからこれはきっと俺の性分なのだろう。

「どうしたよ、ルッツ」

 何でもないように、不敵な笑みさえ浮かべて瞳を覗き込めば、ルートヴィッヒはうっと息を詰める。俺の弟は確かに優秀なのだが、駆け引きというものには頗る弱い。それが俺のちょっとした悩みの種であり、助けにもなっていた。こうなってしまえばルートヴィッヒはまず本題に入ることは出来ない。抱いた疑念を問い質すのは先伸ばしにされる。少しずつ、少しずつ。
 そのうちに俺はルートヴィッヒのことさえ忘れるのだろうか。培ってきた何もかもを、失くしてしまうのだろうか。分からない分からない。ただ分かるのは、俺は間違いなく緩やかに死んでいっているということだった。






忘却心中
(忘れられていく国と、忘れていく俺と、)
(行き着く先はただ、死)






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