闇夜──ふと俺は、ギルベルトの部屋に明かりが点いていないことに気が付いた。書類整理の息抜きにコーヒーを淹れようかと、台所に向かう途中でのことだ。
もう寝たのだろうか。確かに夜は更けてきているが、寝るにはまだ少し、早いと思う。それに扉の向こうには人が起きている気配があった。ならば何故明かりを点けていないのだろう。不審に思った俺は、部屋のドアを軽くノックする。返事はない。静けさだけが返ってくる。
「兄さん?」
不審が募り、俺は声を掛けながらドアを開く。部屋の中は真っ暗だった。明かりが点いておらず、月も出ていないから当然だ。ギルベルトの姿を探すが、彼の姿はどこにもなかった。こざっぱりと物が余り置かれていないから、隠れる場所などそうないのに。
と、肌に風を感じて、開け放たれた窓が目についた。不用心な、思うと同時に思わず下を覗き込む。こっそり抜け出そうとして落ちていないだろうか、と思ったのだ。だがそんなへまはしなかったらしく、街路にもギルベルトの姿はない。
全くどこに行ったのだか。溜め息を吐きつつ下を覗いていると、不意に声が降ってきた。
「何やってんだ、ルッツ」
「に、兄さん…?!」
どこにいるのだか分からない相手を、俺はきょろきょろと探す。しかしやはりどこにもその姿は見当たらない。あれだけはっきりと聞こえたのに空耳という訳でもないだろう。とすれば一体どこから声が。本格的に悩み込む俺に、ギルベルトは実にマイペースな声を掛けてくる。
「お前も来いよ。気持ちいいぜ」
気持ちいい? 何をしているんだ貴方は。それに来いと言われてもどこにいるのか分からなければいけないのだが。俺が状況を飲み込めていないのが知れているだろうに、ギルベルトはまだ姿を現さない。
これはあれか、苛めか嫌がらせの類か。俺はそんな目に合うようなことはしていない筈だ。どちらかと言えばそういうことはこれからするのであって。あぁ、先日少しやり過ぎたのをまだ根に持っているのか。豪放磊落な性格の割にそういうところはしつこいな。まぁ俺としては反抗されるくらいの方が楽しいとさえ思うから、それは構わない。
構わない、が、いい加減に出てこないものか。こう姿が見えないと少しばかり心配になる。
「…まさか怖いのか?」
僅かに笑みを含有した声と共に、漸くギルベルトが顔を覗かせた。窓の上──というか屋根、から。思いがけない場所から現れられたせいで俺はびくりと肩を跳ねさせてしまう。
「どっ…どこに上っているんだ貴方は!」
「どこって…屋根だけど」
「何だってまたそんなところに…」
震えた声を咄嗟に叱責に変えたことを、ギルベルトは気付いただろうか。俺は深く溜め息を吐き、上下逆の顔を見せている彼を見上げる。元々色素の薄い姿は暗闇の中で浮かび上がるようだった。大して様相の違わない俺も彼からは同じ様に見えているのだろう。暫し無言で見つめ合っていると、ふいにギルベルトが破顔した。ケセ、と唇の端を上げる笑い方は昔から変わっていない。
ギルベルトの、俺の兄さんの笑顔だ。俺は昔からこの顔に無駄に、弱い。きゅうと胸が締め付けられるようで堪らなくなる。愛しいと、思う。とてもとても、心から。
「なぁ、上がってこいって。一緒に呑もうぜ」
「ビールまで持っていっているのか」
どこまで一人楽し過ぎるんだ、貴方は。
俺は微かに呆れながら窓枠に足を掛ける。呑みたいなら声を掛けてくれればよかったものを。とは言っても、書類整理が終わらなければ相手にしなかったか。その辺りのことを考えての単独行動らしい。気遣いは嬉しいのだが、せめて一声掛けてくれ。
そんなことを思いながら俺は屋根の縁を掴み、反動をつけて一気に体を持ち上げる。靴底は難なく屋根を捉えた。ギルベルトは俺より筋力がないものの、身軽であるから軽々とやってのけたのだろう。
ビールを片手には…していなかったと思いたい。それは幾らなんでも危ない。だがそういう無謀なことをするのが俺の兄という人なのだと、俺はよく分かっている。痛い程に、よく分かっている。
「いい夜だな。これで月が出てたらもっと最高なんだが」
ひょいと差し出される栓を抜かれたビール瓶。俺はそれを受け取って、しかし口はつけずにギルベルトを見つめる。空を見上げるその様子は、まるで月を恋うているようだった。
ふぅ、と意識が浮上する。
目を開けると真っ白なシーツが視界に飛び込んできた。現と夢との境界がはっきりせず、俺は暫くぼうっと虚空に視線を漂わせる。
あれはいつのことだったろう。俺はいつから──この家に一人で暮らすようになったのだったろう。
夢とはいえ生々しいギルベルトとの接触に、消え去った感傷が呼び覚まされる。当時は思わなかった筈だ、ギルベルトが月を恋うているようだ、とは。夢で俺がそう思ったのは、あの時のギルベルトの言葉が原因に違いなかった。逝かせまいとする俺の腕の中、やけに優しく微笑んだ彼。その口が紡いだ、言葉。
──俺はな、ルッツ…
「月になりたかっただなんて、貴方らしくもない」
口の中で呟いて、俺は再び目を閉じる。だが一度覚めてしまった意識は、なかなか眠るという逃避をすることを許してはくれなかった。
月になりたかった兎
(そうすればずっとお前の側にいられる)
(貴方はそう言って、やはり酷く優しく、笑った)
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