兄さん、そう言った筈の声は喉に張り付いて、実際は音にならなかった。
目の前に置かれたものが何なのか、俺にはすぐに理解することが出来ない。質素な、かなり大きさのある箱だ。外側は真っ黒に塗られている。閉じられた蓋、その上に乗せられた──鉄十字。それが意味することが分からない筈もないのに、俺は突き付けられた事実を飲み込めないでいた。
あの日、彼は確かに笑った。確かに言った、その口で、必ず帰ると。だからもう少し待て、今までの歳月に比べれば半年や1年はなんてことないだろうと。それがどうして、こんな。
視線はその箱から奥にずれて、所在なく佇むイヴァンを捉える。湧き上がる感情はとても内に止どめておけるようなものではなかった。突き動かされるままに足を進め、上背のあるイヴァンの胸倉を掴む。口元に刻まれた薄ら笑いに虫酸が走る。自分が何をしたと言いたげな目にも。
「兄貴に何をした…返答によっては無事に帰れないと思え」
吐き出した言葉は随分と低音だった。一瞬危惧したように引き攣ったり変につっかえることもない。
イヴァンは俺の様子にさもおかしそうに首を傾げ、ゆっくりと口を開いた。
「嫌だなぁ…変な言い掛かりはよしてよ、ルートヴィッヒ君」
やおら持ち上がったイヴァンの手が胸倉を掴んでいる俺の腕に乗せられる。手首辺りを捉えた指に、じわじわと力が込められていく。イヴァンの顔は涼しげなままだ。このまま折られそうな気配が垣間見えたが、俺はそれを無視した。知ったことか。それより今はこの男が、憎い。平然と空惚ける様子など、今すぐにでも撃ち殺してやりたいくらいだ。
それはぐっと耐える、けれど。怒りをぶつけるなと言う方が無茶な話だろう。平静でいられる筈がない。こんな風に、こんな無残な姿で。
「僕は本当に何もしてないよ。彼は自然に弱っていったんだ。一つになる日が近付くにつれて、ね」
どういう意味か分かるでしょ。
にこり、と微笑まれる。キツく握られた腕がきしりと軋んだ。
恐れていたことでは、あった。国家が形骸化してからも、俺に寄る形で何とか命を繋いでいた。それが分割で寄る辺を得て、仮初でも自分自身の命を得て。喉から手が出る程に望んだ再統一、だが彼はどうなるのだと、いつも頭の隅で考えていた。けれどあの日、壁が崩れた日、何十年振りかに顔を見たら、そんなことは吹っ飛んでしまった。再会出来たことに無上の喜びを感じた。この為に今まで色々なことを耐え忍んできたのだとさえ思った。そんな俺に、決してこちら側には踏み出してこずに、彼は笑って言った。
このごたごたと片付けてから帰るから。必ず、お前の元に帰るから。だから、もう少しだけ。
存外元気そうなことに安堵していたから、俺は分かったと頷いた。そして今日という日をずっと心待ちにしてきた。だというのに。あぁ、こんなことになるくらいなら、あの時に無理矢理にでもこちらに来させればよかった。抱き締めて、口付けて、お帰りと言ってやれば、よかった。
「今日のことでやらなきゃいけない仕事かあるんだ。僕はもう帰るね」
無造作にイヴァンの手が動く。手首を捩じられて、服を掴んでいた手が引き剥がされる。踵を返して去っていく背中は実に悠然としていた。そこには懺悔も憐憫も存在していない。俺たちとは違う立ち位置から事態を眺めて楽しんでいるような、そんな嫌な達観だけがあった。
俺はイヴァンが部屋から出ていってしまうと、置いていかれた箱に目を遣った。黒い質素な箱だ。似合わないな、と思う。彼は派手好みだし、黒にしたってもっと高級そうな質感が似合う。
文句の1つでも言っているんじゃないか。なぁ、兄さん、ギルベルト。
そっと鉄十字を取り上げて、スーツのポケットに落とし込む。それから躊躇いながら、俺は箱の──棺の蓋を、開いた。現れるのは見慣れない色、月光のような銀髪。あの日にも見て違和感を覚えた色だ。瞳は確か、紅。
イヴァンが乗り移ったような色彩に嫌悪感を覚える。どこまで苦しめれば気が済むのだ、あの男は。思い出したくもない顔を脳裏から追い払い、俺は手を伸ばす。眠っているような様子で棺に入っている、ギルベルトに。
触れた頬は冷たかった。その色と相俟って、その温度は白雪を思わせる。この部屋には俺とギルベルト以外はいない。そう分かっていながら俺は一度部屋を見回す。そうして抱き起こしたギルベルトの体は、軽かった。細くなったようにも感じられる。
見慣れない兄さん、俺には知り得ない彼があちらで過ごした数十年。何があったのだろう。何を思っていたのだろう。当て所なく話し合うつもりだった。これから時間は沢山あるから。ずっと一緒にいられると、思っていたから。
なのに、あぁ、どうして。
「兄さん…お帰り、兄さん。冗談なら早く目を、開けてくれ…」
引っ掛かったな、と軽快に笑う声は、いつまで経っても聞こえてきはしなかった。
雪の温度の頬は微笑わない
(もう動かないなんて信じたくないよ)
素敵文章企画「I
LOVE YOUを捨てないか」様に提出させて頂きました。