「ギルベルト、昼食が出来たぞ」
「これ終わったらすぐ行く」
窓から顔を出して呼び掛けると、ギルベルトは薪割りの手を止めてそう言った。
冬が近く、そろそろ暖炉に火を入れなければ過ごすのが辛い季節になってきている。もう直に冬だな、俺が漏らした言葉にギルベルトは頷き、数日前に楽に一冬越せそうな薪を買ってきた。適当な大きさに割って束にしておくのは彼の仕事だ。というか、俺がやろうかと提案したのだが、素気なく却下された。掃除も料理もお前がやってるんだからこれくらいはやらせろ、とは彼の言である。
がりがりという訳ではないが痩せているギルベルトに任せて大丈夫なのかと当初は心配したが、それは今のところ杞憂に終わっている。どこからあんな力を出しているのだか、さくさくと薪割りを熟していく姿には手慣れた感があった。その様子なら大丈夫かと、俺は自分の仕事に専念することにした訳だ。
上着から袖を抜きながらギルベルトがダイニングに入ってくる。お疲れ様、そう言えば、あれくらいじゃ疲れねぇよ、と笑われた。
食卓に上るメニューは質素なものばかりだ。ギルベルトがどこからともなく仕入れてくる肉に、家の側で作っている野菜を炒めたもの。それからスープとパン。正餐である筈の食事の時間には若干寂しいのだが、2人でテーブルを囲めばそんなことは関係ない。ギルベルトが肉を切り分けるのを見ながら、俺もスープに口をつける。
ここでの生活というのは実にのんびりとしている。というのは少し語弊があるかもしれない──俺はここ以外の生活を知らないのからだ。何と比較してのんびりとしている、と評すのか、自分でもいまいち分からなかった。だがとにかくそう感じたのだ。
電話もテレビもラジオもなく、世間で起きていることは全く伝わってこない。それでも生活に支障は全く出ていないし、今後出ることもなさそうだ。ギルベルトとこうして2人で誰にも干渉されずに過ごしていられれば、それでいい。元々嗜好品や娯楽の類はそう必要としない性質であるから、手に入らなくとも困らないことだし。
「ずっと続けばいいのに…」
独り言のように呟かれる言葉に、俺は目線を上げる。
ギルベルトはパンを千切って口に放り込みながら何やら考えていた。その目は何かを見つめているようで、何も捉えてはいない。見たことのない表情に、何故かぞくりと背中が震えた。
「ギルベルト?」
「ん? どうしたルッツ」
「…いや、何でもない」
「何だよ、おかしな奴だな」
ざわつく心を沈めようと声を掛ければ、ギルベルトの表情は普段のものに戻る。返ってくる声音にも変なところはなかった。どこからどう見ようと、その反応は俺の知るギルベルトのものだ。思い過ごし、だろうか。ただの見間違えと空耳。あんまりに幸せだから、そのことが空恐ろしくなって、だから。
ギルベルトは怪訝な顔をしながら食事を再開する。引っ掛かるものを感じながら、俺も皿の上のものを平らげていった。調味料が余り手に入らなくて大した味付けは出来ないのだが、ギルベルトは毎回不満を言うこともなく胃に納めてくれる。やっぱお前が作るのは美味しい、そう言われるのは嫌いじゃない。お世辞ではなく、本心からギルベルトがそう言ってくれるのが嬉しかった。
いつの間にか後片付けはギルベルトの役目として定着している。彼が洗い物をしたりしてくるくる動き回っているのを見るのが俺は好きだ。拗ねて唇を尖らせているのも、照れて真っ赤になっているのも、楽しそうに笑っているのも。だから彼の説明に俺は疑問を感じなかった。
俺とギルベルトは恋人同士で、世間の強い風当たりを避けてここで暮らしているのだ、と。ギルベルトはそう言った。彼との関係とここにいる理由を問うた俺に対して。
俺がそれを彼に訊いたのは、訊かなければならなかったのは、記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているからだった。全てを忘れてしまった訳ではない。自分が何という名前で、どこの生まれであるか、生活する為に必要な記憶はほとんど残っていた。ないのは、体験によって記憶されるのものだった。どこで誰と何をしたか、どんな知人・友人がいるのか、俺は全く覚えていなかった。親族の顔さえも。
混乱する俺に、ギルベルトは根気よく色々なことを教えてくれた。それは何の疑問もなく納得出来るもので、俺は彼の言っていることに間違いないのだと信じられた。同じ状況に置かれた普通の人間が聞かされたなら受け入れられないような事実を、俺はあっさりと飲み込めたのだ。それは頭が覚えていなくとも体が覚えているからだと、俺は思った。
だからこうしてギルベルトと一緒に暮らしている。恐らく、記憶をなくす以前から何も変わらないまま。
「なぁルッツ、何か思い出したか?」
食器棚に皿をしまいながら、ギルベルトがふと思い出したように訊いてくる。
何か、思い出しただろうか、俺は。日常の中で懐かしいと感じたり、相変わらずだなと感じることはある。思い出としては残っていないが、どこかで確かに覚えているからなのだろう。だがそういう感情を抱いても、過去にあったことを明確に思い出したことは一度もなかった。重く厚い蓋が掛けられているかのように、何度思い出そうとしても何も出てこないのだ。きっかけのようなものがあれば存外簡単にいくのかもしれないが、それが何なのか俺には検討がつかない。
いや、と首を振れば、ギルベルトはそうかと吐息に混ぜるようにして言った。その様子がどこか安堵したようだったのは、きっと俺の勘違いだったのだろう。
クリスマスが近くなったある日。
2階で物音がしたような気がして、俺は階上に視線を遣った。ギルベルトは買い出しに出掛けていて不在だ。俺以外に音を立てる者はいない筈である。こんな田舎だ、泥棒という線は極めて低いだろう。だが何かが侵入した、ということは有り得る。
少し前にかさこそと物音がすると思ったら、リスが迷い込んでいたことがあった。もしまた野生動物が入ってきているのなら、外に出してやらなければならない。自然の中に帰りたいだろうし、家を荒らされるのも困る。俺は座っていたソファから立ち上がり、一路2階へと向かった。
そうして耳を澄ませてみると、どの部屋から音が聞こえてくるのかよく分かる。突き当たりにある、小さな部屋だ。俺はそこに入ったことがない。ギルベルトが自分の荷物を入れていて、余りに汚いから整理が終わるまで見られたくないと言ったからだ。色々と細々しいものが多いらしく、片付けが終わったという話は聞いていない。
俺は部屋に入るのを躊躇った。扉を開けてみようと思わなかった理由は2つ。この部屋に用事がなかったこと、そしてギルベルトの言葉に頷いた事実があることだ。俺は彼が整理が終わったと宣言するまで、この部屋を開けないと約束した。終わったと言われても、何の理由もなくいそいそ見にいくようなことはしなかったと思うが。
だが今、俺には部屋に入らなければいけない理由があった。中から何やら音が聞こえてくる。それはもしかしたら、迷い込んだ野生動物の出しているものかもしれない。ギルベルトの私物があるのだとしたら、荒らされてしまう前に外に出すのがいいに決まっている。大切なものが置いてあるかもしれないし。
済まん、と約束を破ることを心中で詫びながら、俺は扉を開いた。
「…?」
室内はこざっぱりしたものだった。ギルベルトか言っていたような状況は見受けられない。物などほとんど置かれておらず、隅に洋服箪笥と木箱が何箱か置かれているだけだ。動物らしきものも見当たらない。
おかしいな、思って辺りを見回せば、肌に風の流れを感じた。また物音──きぃきぃという音がする。それは、鍵が外れて開いてしまった窓の蝶番が立てる音だった。何だそういうことかと、俺は近寄ってしっかりと窓を閉める。そうすると風が窓を鳴ら以外の音はしなくなった。これで問題は解決だ。
だが俺の心には解決出来ない疑問が生まれていた。ギルベルトはどうして嘘など吐いたのだろう。私物らしき物はあるものの、彼が言ったように整理されていない訳ではない。寧ろきっちりと片付けてあるではないか。ならば口にしたあれは俺をこの部屋に入れない為の口実だったのか。何故嘘を吐いてまでこの部屋に自分を入れたくなかったのだろう。疚しい物が置いてあるようには見えないが。
俺は洋服箪笥と木箱に目を向ける。木箱は上に布が被せてあるだけで、蓋は開いているようだ。そこから何かが覗いている。
ずくり、頭が痛んだ。
見るなという声と見なければいけないという声が交錯する。ふらりと足を踏み出し、俺は布を掴んだ。ゆっくりとした動きで取り去ると、現れたのは信じられないものだった。拳銃と、その弾丸。どちらも1つではなく、何ダースといった単位で納められている。
何なのだろう、これは。どうしてこんなものをギルベルトが持っているのだろうか。ここで静かに暮らしている分には、拳銃等いらない筈だ。
俺は得体の知れない感情につき動かされて、洋服箪笥を開く。そこには濃緑のジャケットが掛けられている。濃紺のものも。下にはズボンやシャツが畳んで置いてあった。シャツの上には安置するかのように十字のペンダントがある。
ずくりずくり、頭の奥が痛む。何だこれは、一体何なんだ。
手を伸ばしペンダントを拾い上げる。その凍えるような冷たさに、俺はついそれを取り落としてしまった。意外に大きな音を立てるそれに、ばちっと脳裏に火花のようなものが散る。
頭の痛さはピークに達していた。がんがん殴られるような衝撃に、立っていられずに膝をつく。クソ、何なんだこれは。一体何が起きている、何だってこんなものがここに。ギルベルトはどうしてこんな、俺をここに寄せ付けずに何を答えてくれ、なぁ、頼むよ──兄さん。
『兄さん』。
その呼称は妙にしっくりと馴染んでいる。それはそうだ、俺とギルベルトは恋人同士である以前に、兄弟なのだから。そして俺は彼を、それこそ何百年という単位で兄と呼び慕ってきたのだから。
あぁ全て、何もかもを、思い出した。
俺は倒れたのだ、戦火が拡大していく中、次から次へと舞い込んでくる仕事に忙殺されて。その時に頭でも打ったのだろう。それで大切なことを色々と忘れてしまった。忘れてはいけないことを皆、忘れてしまった。そうして1ヶ月余りもこんな田舎でのうのうと暮らしていた。ギルベルトと一緒に。国を担う片割れと一緒に。
ならば今ベルリンでの指揮は誰が執っている。上司の傍らには誰が控えている。俺がそう出来ないのは無理もなかったとして、何故ギルベルトはこんなところで俺と暮らしている。一体何を考えているんだ、あの人は!
俺はご丁寧に仕舞われていた軍服に袖を通す。落としてしまった鉄十字もきちりと襟元につけた。これまで外して仕舞い込んでおくなんて、どうにかしているとしか思えない。探せばすぐにいつも穿いていたブーツも見付けることが出来た。
ここに来てからはずっと下ろしていた前髪を上げれば、鏡の中の自分は1ヶ月余り前の自分と寸分違わなくなる。これが俺の、『ドイツ』のあるべき姿だ。どうしてずっと思い出せずにいたのだろう、情けない。はぁ、俺は溜め息を吐く。
と、玄関先に人の気配。忍ばそうともしていない足音はギルベルトのものだ。漸く帰ってきたか。毎度毎度どこで食料を手に入れてきていたのやら。まぁあの兄のこと、思わぬ人物や会社と繋がりがあってもおかしくはない。
「遅くなって悪い、ルッツ……ルッツ?」
速攻でリビングに向かったらしいギルベルトは、そこに俺の姿がないことに疑問を抱いたようだった。俺は大抵自室ではなくそこにいたから。いつも、そこでギルベルトの帰りを待っていたから。このご時世に、実にのんびりとな。
声を上げながらギルベルトが近付いてくる。がさがさ音が聞こえるのはまだ荷物を持っているからだろう。バスルームの扉は開けっ放しにしてある、ギルベルトはすぐに俺の居場所に気付く筈だった。この別荘は小ぢんまりしているのを2人して気に入っていたくらいだから、そうしていなくともいずれは辿り着いたろう。
「何だこんなとこにい、た…」
「お帰り、兄さん」
俺の姿を目にした途端、ギルベルトは見るからに青褪めた。腕の中の紙袋が音を立てて床に落ちる。上の方に入れてあったのか、転がってきた林檎が俺のブーツに当たって止まる。手袋を嵌めた俺の手がそれを拾うのを、ギルベルトは信じられない目で見ていた。
無意識に横に振られる首。それは一体何を否定しようとしているのだろう。何を、拒絶しようとしているのだろう。
林檎を放り出し、俺は一歩前へ踏み出す。合わせるようにギルベルトは一歩後退する。わなわなと震える唇は、血の気が引いて酷く白っぽく見えた。
「ルッツ、お前、」
「全部思い出した。迷惑を掛けて済まなかったな、兄さん。ところで訊きたいんだが──」
言い様、俺はばんっと壁に両手を突く。ギルベルトを決してどこにも逃がさないように。
動揺していて自分が壁際まで後退していたことにも気付いていなかったらしい。退路を塞がれたことを悟るなり、ギルベルトはずるずると床に座り込んだ。常の彼ならばそこから横っ飛びに逃げることも出来たし、しただろう。だが今日はその気配がなかった。
細い息が薄く開いた唇から漏らされる。時折引き攣るそれは嗚咽を耐えているような気があった。視線の定まらない瞳が俺を見上げる。涙さえ浮かべて、俺を見る。
それに刺激されたのは苛立ちだった。激情に命じられるがままに、俺は言葉を口にする。
「俺と貴方はどうしてこんなところでのうのうと暮らしていた?
どうしてベルリンにいない? どうして俺に真実を隠して隠棲の真似事などしていたんだ?
答えてくれ兄さん──ギルベルト」
「それ、は」
「視線を逸らすな。何故言い淀む?
貴方は堂々と言えないようなことをしていたのか?」
「っ、ルッツ…!」
遂にぼろりとギルベルトの瞳から涙が伝い落ちる。後から後から溢れて止まらないそれを拭おうともせずにギルベルトはうなだれた。
嗚咽で聞き取り難い声がぽつりぽつりと弁明をしていく。
「俺だって最初はこんなつもり、なかったんだ。倒れたって聞いて、病院駆け付けて、そしたらお前、忘れてた。俺のことも国であることも全部、忘れてた」
「びっくりしたけど、すぐに戻るだろうって思った。でも戻らなかった。何日経ってもずっと、戻らなかった」
「もしかしたら、って思ったのは、そん時で。田舎に引っ込んで、世間から隔絶されてれば、お前はずっとずっと、思い出さないんじゃないかって。国とかそういうのは全部忘れてたままで、2人で暮らせるんじゃないかって。幸せに、なれるんじゃないかって、思っちまった。一端の人間みたいに幸せを掴んで、自分の、自分たちの為だけに生きられるんじゃ、ないかって」
「そんなの夢にも、考えたこと、なかったのに。出来る筈ないって、絶対終わりがくる、て、分かってたのに。俺、無理だった。耐えられ、なかった。少しでも可能性が見えたら、それに縋りたくなった。皆に迷惑掛けるの、迷惑掛けるどころじゃねぇのも、分かってた。でも、それでも俺は…っ」
「ここ1ヶ月くらい、すっげぇ、幸せだった。その日のこと、お前と自分のことしか、考えなくて、よくて。お前がずーっと側にいて。下んないことで笑って、喧嘩して、怒って。キスして。抱き合って。ずっとずっとこのままがいいって、思った。このままでいたいって、思ってた」
「けど、お前は、思い出しちまったんだな、ルッツ。もうここには、いられないんだな」
「ごめん。ルッツ、ごめんな。俺の我儘に、付き合わせちまった。何にも覚えてないお前を、突き合わせちまった。もっと早く思い出せたかも、しれないのに。も、と、早くに…」
翌日、迎えに寄越してもらった車の後部座席で俺は体を揺られていた。
隣には泣き腫らした目をしたギルベルトが、また少ししゃくり上げている。近くの街まで出て電話をかけた時、上司の応対は特に怒った風でもなかった。何もかも知っているような感じで、記憶が戻ってよかったと喜ばれた後、場所も聞かずに迎えをやると告げられた。
俺とギルベルトが姿を消した時から、上司はどこにいるのか掴んでいたのかもしれない。だが連れ戻そうとはしなかった。こちらが連絡を入れるまで、接触してこようとはしなかった。だから俺は昨日まで何も思い出さずギルベルトと幸せに暮らしていた。出来過ぎたお誂え向きの環境の中で、密やかに迫る疑念にずっと気付かない振りをして。
けれどもう終わったのだ。終わってしまった。俺は隠された真実を見付け、全てを思い出した。そうなってしまえば、そのまま幸せな生活を続けるなど俺には無理だった。
全ての責任も義務も放棄して自分たちだけ幸せになることなど、許される訳がない。俺は、ギルベルトは、国であるから。一個人の事情よりも一国の事情を優先させなければいけない立場であるから。
それ故にギルベルトは軍服を隠し、鉄十字さえ外して隠蔽を試みた。出来るだけ長く浸っていたかったのだ、想像さえしなかった、人間のような幸せな時間というやつに。
俺とて、本心を言うならばギルベルトと同じ気持ちだ。いつまでもああして幸せに暮らせたならどれだけよかったか。戦況に頭を悩ませず、血腥い話など耳にもせずに、ただただ2人で。
こうして考えると、あの1ヶ月は夢ではなかったのかと思えてくる。意識を失っている間に見た、リアルな夢だったのではないかと。だがこうして帰途を行く車に揺られる時間の長さが、隣で肩を震わせるギルベルトが、あれは確かに現実だと証明していた。
俺はギルベルトを抱き寄せて、後頭部にこつりと額を預ける。本当に、幸せだった。ギルベルトが側にいて、俺たちを邪魔する者などどこにもいなくて。楽園のようだと思った。美食も綺麗な花も麗しい音楽もある訳ではない。質素で素朴な生活、だがそれは確かに、楽園のようだった。
「ルッツ、」
「泣かないでくれ、兄さん。攫って逃げ出してしまいたくなる」
これから何があっても、きっと俺はこの1ヶ月のことを忘れないだろう。そしてこの1ヶ月のことを思い出せば、きっとどんなことも乗り越えていけるだろう。
よく見知った街並みが見え始める。待ち受けている殺伐とした現実に、俺は息を吐いて目を閉じた。次に目を開けた時には叶わない願いなど断ち切っていると誓って。
「さぁ行こうか、兄さん」
「…あぁ」
取り合った手は仄かに、生温い幸せの名残を止どめていた。
20000hit企画