好きだ、と言われた。いつもなら俺は笑って返していた筈だ。俺も好きだぜ、と。けど今回、そうすることは出来なかった。俺が答える前にルートヴィッヒが言葉を重ねてきたから。
好きだ、愛している、貴方を愛しているんだ兄さん──ギルベルト。
後ろから俺を抱えるようにしている弟は、確かにそう言った。そう言って、より強い力で俺を掻き抱いた。首筋にかかる息は熱く、仄かにアルコールの匂いがした。そりゃあそうだ、ルートヴィッヒは嘗て枢軸と呼ばれた面子と呑みにいっていたのだから。
時計の短針はそろそろ1を指そうとしている。帰ってきたルートヴィッヒは少しばかり酔っているようだった。だから俺はこうして台所に立って、酔い冷ましの水でもやろうとしていたのだ。が、こんな風にしてルートヴィッヒに抱き付かれていたんじゃ、いくら俺様でも身動きが取れない。重いぞムキムキ、全体重預けるな。何とか抜け出そうとするのだが、太い腕はびくともしない。
クソ、この酔っ払いめ。鳩尾に肘入れて沈めてやろうか。普段は無理でもこの状況なら容易い筈だ。
「ルッツ、おいルッツ、取り敢えず離せ。話はそれからだ」
「…断る」
不穏なことを考えながら試みた説得は、たった一言で却下された。おいおいルートヴィッヒさんよ、そりゃなくないか。重たいのとか酒臭いのとか我慢して言ってやってんのに。フランシスとかだったら何も言わずに肘鉄食らわせてるんだぞ。お前が相手だから実力行使になかなか出ないの、分かってんのか。
分かってないんだろうなぁ。分かってないからこんなべったり引っ付いて離れないんだよなぁ。蛸かお前は。アントーニョにパエリアにされてしまえ。
なんて冗談はさておき。あーもー、早く離してくんねぇかな。酔っ払いの相手って疲れるんだよ。俺の方がよく酔っ払ってルートヴィッヒに相手をさせてるとか、そんな事実はなかったことにしておく。関係ないだろ、この状況には。こんな、訳の分からない状況には。
ルートヴィッヒが俺のことを好きだなんて、ずっと前から知ってた。だってこいつは、俺の半分程しか身長がない時分から、兄さんと慕ってくれていたから。直接その想いを告げられたことはごく少ない。けれど、俺はちゃんと気付いてたし分かってた。ルートヴィッヒの好意。それは間違いなく己が兄に対するもの、で。
そうだった筈だ。少なくとも俺にとっては、そうだった。可愛い可愛い弟。ムキムキになったって、無愛想で強面だって、俺にはこの上なく可愛い弟なのだ、ルートヴィッヒは。でなければ騎士として守るべき主か。どちらにしろ、ルートヴィッヒに告げられた想いには相応しくない。
Ich liebe dich、家族への愛情表現では決して使われないそれ。気持ち悪いくらいに仲がいいと悪友にからかわれるくらいの俺たちだって、一度も使ったことがなかった。だってそれは、禁忌の言葉だから。俺とルートヴィッヒは家族で、兄弟で、男同士で、だから──だから。
どうしようもない震えが体を襲う。ルートヴィッヒは軽く溜め息みたいなのを吐き出して、それから俺を抱き直した。後ろに引っ付いてる体は厚くて、熱い。昔は膝に乗っけてやったり、抱き締めてやったり、そうするのは俺だった。今じゃ立場が逆転してる。
ルートヴィッヒが成長して、俺は衰えたから。ルートヴィッヒが俺の身長を越したのはいつだったろう。こんな風にムキムキになり始めたのは、いつだったろう。俺のことをそういう風に好きになったのは、一体いつだったのだろう。
ルッツ、ルッツ、俺の可愛い弟。ちゃんと口に出して説明してくれなきゃ分かんねぇよ。お前はそういうの、とことん顔に出さねぇんだから。昔も相当分かり難かったけど、今なんかさっぱり、これっぽっちも分かりゃしない。本気で隠されたら分かる訳、ないんだ。お前は俺と違って、そうそうボロを出したりしない。
全然似ていない、お前はいい反面教師だと、人は言う。全くだ、俺とルートヴィッヒは似ていない。顔はともかくとして、性格なんかは特に。だから分かる訳がないんだ、気付けた筈が、ないんだ。弟の好意が、いつから家族に対するものから、俺個人に対するものになってたか、なんて。
回された腕に空いた手をかけると、そこは随分熱いように感じられた。びくりとしてつい手を引く。何のことはない、俺の手が凍り付いたように冷えているだけだったのだけれど、その熱さは何だか恐ろしかった。このムキムキが子供体温みたいなのは知ってる。知ってる、けど、何か違うように感じた。今背後にいるのは本当に俺の弟なのか、なんて馬鹿げた思考。そうに決まってるのに。
決まってる………本当に? 本当に、ルートヴィッヒ、なのか?
こんなの、俺は知らない。こんなルートヴィッヒを、俺は知らない。空恐ろしくなって、俺は身を捩る。この腕の中にこのまま捕らわれていたら、自分まで何か違うものになってしまう気がして。
「ルッツ、」
「嘘でも冗談でもない。そんなのじゃないんだ、兄さん」
「ル、ツ」
「愛している」
「──…っ、」
言葉を重ねられる毎に俺の体は震えてしまう。
だってこんなの、こんな、の。許されちゃいけないし、許されるようなことがあっちゃいけない。何があっても絶対に。だから俺は答えられない──何も、何も答えちゃいけない。
体を捩っても腕を引っ掻いても、ルートヴィッヒは強く俺を抱いて離さなかった。苦しいくらいに強く強く、抱いて。まるで逃がさないとでもいうように。それに感じたのは、有り得ない、有り得ないことに、恐怖だった。笑える話だ、俺がルートヴィッヒに恐怖を感じるなんて。なのに、あぁ、それは俺の体を竦ませる。動けなくさせる。逃げられなく、させる。
不意にルートヴィッヒが動いたのは、その時だった。一瞬緩んだ手が俺の体勢を無理矢理変えて、また抱き直す。背中を壁に押し付けられる格好、ルートヴィッヒの顔が、近い。近過ぎ、る。
手から力が抜けて、持っていたグラスが床に落ちる。ガシャン。空虚な音を立ててそれは粉々に砕け散った。
水をたっぷり入れていたから、床が水浸しになる。俺の足も濡れる。ルートヴィッヒの足だって濡れる。早く掃除をしないと。
現実から目を逸らしたがる思考がいつもとは全く違う所感を述べる。出来る筈ないのに、そんなの。だって俺はルートヴィッヒの腕の中に閉じ込められてる。
だって俺は、だって、だって。
「愛して、いる…心から貴方を」
触れ合ったまま、唇は俺の口内に吹き込むようにして言葉を紡ぐ。そうしたなら俺が答えてくれるとでもいうように。応えてくれるとでもいうように。有り得る筈がない、そうなる筈がない、その事実が覆るとでもいうように。
馬鹿だな。お前は馬鹿だ、ルートヴィッヒ。
お前が口に出したりしなきゃ、俺はそのまま気付かなかった。お前が伝えてしまわなけりゃ、俺は気にも留めなかった。最早日常となっている行為、家族にしたって過度に親密なハグもキスも。その意味を知らなかったら、俺はずっと受け入れたのに。お前の好意の対象を知らないままだったなら、俺は自分からそうしてやることだって、出来たのに。
あぁだけどそれは、苦しみばかり産むんだろう。俺を兄と見ていないばかりに、俺が弟と見ているばかりに。同じ意味を成していた筈の言葉はいつの間にか意を違えて、擦れ違うようになっていたから。俺はそれを知らなかった、気付かなかった。ルートヴィッヒだけが知っていた、気付いていた。
愛してる──俺のそれが誰に向けた、何を意味するものなのか。
愛してる──自分のそれが、誰に向けた、何を意味するものなのか。
だから壊すしかなかった、こうして俺を、日常を、今までの関係を、みんなみんな、壊すしかなかった。アルコールの助けを借りて、もしかしたらその振りをして、告げるよりなかった。ずっと自分の心の中だけに秘め続けるなんて、そんなのは、辛過ぎるから。そんなことを続けていたら、いずれ自分の方が壊れてしまうから。自衛の為の行為、そうせざるを得なかった行為。それはきっと正当化される。そして全ては肯定される。ルートヴィッヒの中で、だけ。
俺はそんなものを正当化も肯定も出来ない。だから争う、俺を日常を今までの関係を壊すものに。それが何を意味するか知りながら。それが自分に何を齎すか、十二分に知りながら。
だってルートヴィッヒ、許されないんだ、そんなのは。許されちゃいけない。
脅迫観念にも似た感情が胸の中で跳ね狂う。心が息が腕が指が足が体が俺の全てが発作のような震えを起こす。涙がじわじわ込み上げてきて溢れて頬を伝うのを感じながら、俺は掠れた声を上げる。
「俺も愛してるよ、ルートヴィッヒ、俺の大切な弟」
言った途端、がり、と触れたままの唇に噛み付かれた。生温い血が零れる。俺の血──ごく似たものがルートヴィッヒにも流れてる。この余りにも近い皮膚の下を、流れてる。
頭がくらくらするのは全身を苛む背徳のせい? それともキツく抱き竦められているせい? 分からない分からないもう何も分からない。
ルートヴィッヒの瞳が凄惨な色を宿すのを間近、本当に近くで見つめながら、俺は口の中で呟いた。
あぁ神様──。
素敵企画「終止符を打つ。」様に提出させて頂きました。