夜明け前の静かな時間、膝を抱えて空を見上げる。もう習慣になってしまった行為。この時ばかりは乱れた髪も着物も、気になどならなかった。多少傷が痛もうと構わずに見上げ続ける。
今日は真っ暗で、月さえ雲に顔を隠してしまっていた。それを寂しいとは、思わない。故郷ではこの空はどんな風に見えているだろうか。誰かが同じようにして、こうして空を眺めているだろうか。そう考えるだけで幾分か荒んだ心は穏やかになった。
ギルベルトはごく一部にはよく知られている蔭間の男娼である。乗っていた船が難破してたまたまこの国の海岸に流れついたところを、蔭間の主である菊に助けられた。彼は最初こそあれこれと優しく世話を焼いてくれたが、ギルベルトの体調が戻るに従ってその本性を見せ始めたのだった。
帰国の目処が立つまではいてもいいが、まさか働かないつもりはあるまい。丁度自分は実入りのいい商売をしているから、働かせてやろう。
そう言って放り込まれたのが、毛色の違う者が多いと人気だとかのこの蔭間だった。菊曰く、意外に高くついた薬代を払え、自分の食い扶持は自分で稼げ、ということらしい。顔に似合わぬ手練手管で体を弄り回され色々と仕込まれて、ギルベルトはあれよあれよという間に立派な商品になってしまっていた。今では稼ぎ頭の座をフランシスと争う程である。
生来の性格で人前では暗い顔など滅多と見せないギルベルトだが、人間である以上は落ち込むことは人並みにある。特に相手をしたのが常連になってきている連中だった場合は尚更だ。疲れるばかりでなく精神が磨り減らされて、そうするともうどうしようもなくなる。ぎりぎりまでは何とか耐えるのだが、限界が来ると、ギルベルトはこうして空を見上げることにしていた。
同じ空の下にいるのだ、いつかは必ず帰ることが出来る。だからこれは必要なことで、無駄でも無意味でもない。そう自分に言い聞かせる。でなければとっくにおかしくなっていそうだった。あんな風に体を差し出して無体をされるのを容認する日が来るなど、夢にも思わなかった。
ギルベルトは小さく溜め息を吐き、膝に顔を埋める。が、その瞬間に眉根を寄せて顔を上げた。着物にべったりと移り香がついていたのだ。噎せ返るような薔薇と紅茶の芳香と、いつも吸っている煙草の臭い。あいつの匂いだ。そう思うと途端に胸糞悪くなる。
あんな紳士面を下げておきながら、中身は浪人も真っ青な不良野郎だなんて。しかも菊はそれを知りながら好き勝手に振る舞うのを許しているのだから堪らない。どうにかしてくれと訴えることも出来やしない。仮にそうして菊が注意したとて、素直に聞くような輩にはとても見えないが。
すぐに顔を離したというのに鼻についてしまった匂いを紛らわせる為、ギルベルトは袂から煙管を取り出した。だが肝心の火がない──煙草盆を持ってこなかった自分を恨みつつ、火を点けないまま口に咥える。感情に任せて吸い口に刃を立てると、苦いような鉄の味がした。
逃げ出してしまいたいと、思う。そうしてひっそりと算段をつけて、本国に向かう船に乗り込む。そうすればこんな場所、生活とはおさらばだ。益になっているのかもよく分からない不毛な行為を続けなくとも済む。
だがそれが不可能なことも、ギルベルトはよく理解していた。店を抜け出すだけでも手酷い仕置をされるのだ、逃げ出したなら最悪、命がないだろう。全く狂っているとしか思えないが、そういう場所なのだここは。
穏便に店を辞められる方法があるとすれば身請けをされることだ。けれど男を身請けするような酔狂な客はまずいないし、そうされてしまったら帰れなくなってしまう。それでは本末転倒だ。何の為にここまで耐えてきたのだか分からなくなる。
「Scheiβe…」
ぼそりと呟くと同時、背後でじゃりと地面を踏み締める音がした。ギルベルトは弾かれたように顔を上げ、そちらの方に視線を向ける。
現れたのは菊ではなく、大柄の男だった。着流しに羽織りを着て、煙管を片手にしている。肌の白さと金髪碧眼という様相から、彼もこの国の者ではないことがすぐに知れる。抜け目ない様子で歩いてくる男の名はルートヴィッヒと言った。ギルベルトと同郷で、蔭間の用心棒のような仕事をしている者である。
同僚たちよりも余程気心の知れる相手であった為、自然とギルベルトの体からは力が抜けた。火の入っていない煙管を咥えたまま、隣に立たれるままにする。ルートヴィッヒが何も言ってこないのはいつものことだ。こうして何度か会ったことがあるが、交わした言葉の数は極めて少ない。だからギルベルトが彼について知っているのは、名前と同郷であること、普段彼が何をしているかくらいのことだった。どうしてこの国に止どまり続けるのか、こんな場所を仕事場にしたのか、その辺りはまるで謎だ。
ふと視線を上げるとルートヴィッヒもこちらを見ていたか、目が合った。濁りのない碧に見つめられ、首筋がぞわりとする。菊に見据えられた時とはまた違う感覚だ。
静寂に耐え切れなくなり何か言おうとして口を開くも、ルートヴィッヒがそれを遮った。
「何を考えていたんだ」
「………別に何も」
耳に心地好い低温が紡ぐのは本国の言葉だ。ぶっきらぼうに返すと、そうか、とだけルートヴィッヒは言った。自分から話を振ってきた癖にいやに素っ気ないな。内心で首を傾げていると、ルートヴィッヒは隣に腰を下ろしてきた。埃っぽい砂の上だというのに構わず胡座を掻いてしまう。
それから顔を寄せて、ついと煙管の先が差し出される。ギルベルトは暫しきょとんとしていたが、火をくれるのだと分かって慌てて自分も顔を寄せた。軽く息を吸うと火が熾り、煙管は紫煙を流し始める。
煙をゆっくりと吸い込むと、キツい味に頭がくらりとした。それでも今はその強烈さが心地好い。ふぃーと息を吐き出してギルベルトは視線を横に流す。
ルートヴィッヒは虚空を眺めながら、ギルベルトと同じようにして煙管を口に運んでいる。男臭い仕草にどきりとするのは、存外甘んじている現状に毒されているからだろうか。それとも単にルートヴィッヒが他よりも美形なだけだろうか。
じっと見つめていると流石に気付かれて怪訝な顔をされた。ギルベルトは誤魔化すように微苦笑し、座る位置を僅かに変える。その瞬間、目を見ていたルートヴィッヒの視線が違うところに移った。
食い入るような様に、つられて自分もそこを見る。体の位置を変えた拍子に乱れた合わせから、付けられた傷が顔を覗かせてしまったのだ。ルートヴィッヒの視線がどうしてそこに釘付けになったのか理解した途端、ギルベルトは素早く衿に手を伸ばした。
だがそれはルートヴィッヒの力強い手に阻まれ、後少しというところで止められてしまう。力尽くで逃れようとするも、ルートヴィッヒの手はびくともしなかった。
「っ、離せ…!」
「放っておくと痕が残るぞ」
「いいんだよそんなのっ」
これ以上まじまじと傷を見られたくない一心で身を捩る。もう少し気を付けるべきだった、と最早遅い後悔の声が脳裏で響いた。
治り切っていない傷があることくらい、痛みで十分に分かっていた筈だ。見られたら気不味くなるであろうことも。それなのにうっかり気を抜いて見付けられてしまった。痛恨のミスと言わざるを得ない。ルートヴィッヒには他から向けられるような嘲りや憐れみの目を向けられたくなかったのに。
じたばたと詮ない抵抗を続けていると、不意に手を掴む力が緩んだ。勢い余って体がぐらりと傾く。地面に倒れ込みそうになるのを庇ったのは、先程まで動きを拘束していた逞しい腕だった。顔を埋める形になった厚い胸板にコンプレックスと妙な感情が刺激される。
ルートヴィッヒはギルベルトを受け止めた体勢のまま動こうとしない。気持ちが落ち着くのを待ってから、ギルベルトはそっと胸板を押し返した。拒絶というよりも離れることを促す動作に、ルートヴィッヒはすんなりと応じる。
余計に乱れた着物を軽く整えられて、ギルベルトは小さく鼻を鳴らした。恥ずかしいにも程がある。
「他人に見られたくないなら余計に応急処置くらいはしておけ」
「そんなこと分かってるっつーの」
分かっているが、そんな暇がなかったのだ。
幾らかの間気を失っていたようで、目を覚ましたのは夜更けだった。途端に居ても立ってもいられなくなり、ギルベルトは痛む体を引き摺ってここまで来た。そうしなければ心が耐えられなかった。体の傷は治って暫くすれば痛みも忘れてしまうが、心の傷はそもそも治りが極端に遅い。いつまでもじくじくと痛み続けられるのは存外堪える。
ギルベルトはどうせ誰も来ないからと適当にしていた衿をきちりと合わせ、帯を締め直す。そうすれば惨めな格好でも少しはマシに見えるようで、少しだけ気分が平静になった。誰かが見ているところで取り乱すなどらしくもない。たまにルートヴィッヒとこうして鉢合わせした時も、これまではちゃんといつも通りを装えていたのに。
ギルベルトは呼吸に浅い溜め息を混ぜる。こんな弱った姿など、見られたくはなかった。こんな姿を知っているのは自分自身だけで十分だ。他の連中に認識されるのは勝気なギルベルトだけでいい。本心を隠して嘘で装った姿だけでいい。
きゅうと唇を噛むと、ルートヴィッヒの目が細められた。それからぽんと頭に手が置かれる。普段ならば子供扱いするなと怒鳴るところだったが、今のギルベルトにそんな気力はなかった。それどころか、その手から伝わってくる温もりが心地好いとさえ感じていた。
俯きがちになっていた顔をゆっくりと上げていくと、ルートヴィッヒを間近で見据えることになる。碧眼は澄んだ光を湛えてギルベルトを注視していた。その真剣さに息を飲む。だがその驚きは直後に彼が紡いだ言葉の衝撃に持っていかれてしまった。
「逃げ出したいと思ったことはないのか」
一瞬、何を言われたのだか分からなかった。何度か瞬きを繰り返してから漸くその意味を理解する。しかし今度は真意を推し量るのが難しく、返答に躊躇した。
ルートヴィッヒの仕事は専ら用心棒だ。客との諍いが起こった時に仲裁──難しければ実力行使に入るのは勿論のこと、それ以外のことも言付かる。例えば足抜けした者の捜索とその処分。実際に見たことはないが、もう何人も沈めたと実しやかに噂されていた。真実はどうあれ、そんな相手に本当のことが言えると思うのだろうか。
本心を率直に述べるなら、今すぐにでも逃げ出してしまいたい。戸に鍵か掛けられている訳でも高い塀に囲われている訳でもないのだ、簡単にそうしてしまえる。
それでも実行に移す者が極めて少ないのは、誰もが恐れているからだ。菊は、その手足であるルートヴィッヒは、容赦がない。
「…ねぇよ、そんな夢みたいなこと」
吐き捨てるようにして答えると、ルートヴィッヒから微妙な反応が返ってくる。それに疑問を覚える暇は与えられなかった。頭に乗せられたままだった手が幼子を宥めるように動いた後、余韻も残さずに離れていく。そうしてルートヴィッヒはそれ以上何も告げずに去っていってしまった。
ギルベルトはその背中を呆然と見送るよりない。手から飛ばされた煙管が、足元で黙々と紫煙を吐き続けていた。
素敵企画「BLACK DAHLIA」様に提出させて頂きました。