もうとっくに決めたことだったから。弱い俺は現実を受け入れることなんて出来なかったから。
 涙は見せなかったと思う。声も震えていなかったと思う。
 俺は振り返りもせずに、サヨナラを告げた。



 さてこれからどうするかと考え始めたのは、目を覚ました病院のベッドの上でだった。負けたから何から何まで勝った奴の言いなり、なんてのは性に合わない。負けても一番マシな──自分にとって有利な立場を引き寄せるのは、俺にしたら当たり前のことだった。ただじゃあ負けてやらない。次の勝ちに繋がるような立場を確保しなければ、負けてなどやらない。
 暇なのをいいことに俺は予想される出方を何通りも考えて、それに対する俺の対応も決めていった。そうしていたものだから、俺はその話が提示された時、ルートヴィッヒ程驚かなかった。寧ろ自分の考えの1つが見事に的中したことに、妙な達成感さえ感じていた。
 差し出された大嫌いなあの野郎の手を取ることに迷いは、なかった。なかった、筈だ。
 けれどその場では何も言わなかったルートヴィッヒに家に帰ってから何故だと言われて、俺の決意は揺らいでしまった。何て軟弱な──そう思ったが、相手がルートヴィッヒでは仕方のない話だった。お坊ちゃんにあからさまに呆れられるくらいには、俺はこの弟に甘い。何故だと、止めてくれという顔で言われて、決意が揺らがない筈もなかった。けれど、子供の口約束ではないのだ。やっぱり止めたなどとは、言える筈もなく。無情にも時は進んで、別れの瞬間はやって来た。
 昔から物分かりも聞き分けもいい奴だったから、ルートヴィッヒは駄々を捏ねるような真似をしなかった。ただじっと俺を見つめて、兄さん、と、そう呼んだ。いつも通りの呼び方、何も思わない筈なのに、何故か涙が出そうになった。それを悟らせない為に態度が素っ気なくなってしまったのは、仕方のないことだったと思う。
 だってそうしなければ、泣き崩れてしまいそうだったんだ。この俺様が、弱い部分を全て晒してしまうところだった。そんなことはプライドが許さなかったから、ルートヴィッヒに背を向けた。肩越しに手を振った。何でもないことのように、いつものように、じゃあなと言った。
 涙は流れなかったと思う。声も震えなかったと思う。それでもきっと、ルートヴィッヒには俺の心境を見透かされていた。
 聡明な弟は皆まで言葉にすることはなかったが、もう一度俺を、兄さんと呼んだ。その一言に全てが込められているようで、堪らなく胸が締め付けられた。
 俺は自分勝手だ。最も有利な条件に迷わず飛び付いた。それがどれだけルートヴィッヒを苦しめるのかなんて、考えもせずに。軍国として生まれた者の本能だと言ってしまうのは、如何にも言い訳じみている。国としての本能を個人としての理性で押さえ付けることは、全くの不可能じゃない。だからこの選択を迷いなくした俺は、どうしようもなく自分勝手で駄目な兄貴なんだろう。
 とっくに諦めはついていたのに、僅かな希望がちらついただけでそれに飛び付くなんて。命を賭して王を守るべき騎士には、あるまじき行為だ。反吐が出る。
 深く長く溜め息を吐くと、隣でそれを気にする気配があった。俺は没頭していた思案から現実に意識を戻し、視線を動かす。そこにはいるのが当然といった様子で、イヴァンが座っていた。いつの間にやってきたのか、俺としたことが全く気が付かなかった。それ程までに思考の波に沈み込んでいたらしい。それ程までに──俺はルートヴィッヒが恋しいらしい。
 そりゃあそうか。あいつは俺の王で弟で、恋人、だから。兄さん、とルートヴィッヒの最後の呼び掛けがまた脳裏に蘇った。いつもは呼び捨てにしてくる癖に肝心な時はそれなんだなと思うと、訳もなくおかしかった。時代が変わっても恋人関係になっても、基本的なスタンスは決して変わらないのだ。兄と、弟。血縁関係などどれ程あるのか分からない、けれど切っても切れない仲。俺の大切な大切なルートヴィッヒ。
 自分から離れておきながら会いたいと思うのは、やっぱり勝手なんだろうな。

「ねぇ、何考えてるの?」
「お前には関係ない」
「そんなこと言わないでよ。折角僕のところに来てくれたんだから仲良くしよう?」

 僕のところに、その言葉にぞくりと鳥肌が立った。こいつにそう言われると、自分はとんでもない間違った選択をしたような気になる。まだルートヴィッヒと一緒にいたかったから、あいつの成長を見つめていたかったから、俺はこの北の大地に行くことを承諾した。生き延びる為ならそんなに悪い選択ではないと、思った。それは間違い、だったのだろうか。
 こいつは俺がそう考えることなどお見通しで、その上であの話を持ち出してきたんじゃないのか? 俺が考えもつかないような計画を、薄ら笑いの奥底に隠して。
 真意を探るようにイヴァンを見るが、その表情から何を考えているのかを読み取ることは出来ない。ただそこはかとない恐怖を感じた。戦場で対峙してもこんな気持ちは決して、抱かなかったのに。同じ陣営の、武器を持ってもいない相手に、そんな風に思わせられるなんて。
 ぎゅうと拳を握り込むと、それはじっとりと汗に濡れていた。自分が柄にもなく緊張しているのだと分かる。にこにこと愛嬌を振り撒くイヴァンに、そうさせられている。俺は一体この男から何を感じ取っているというのだろう。これは本能的な恐怖だ。理性でどうにか出来ないような類の、強い恐怖だ。
 体が震えてしまわないようにと何とか嫌な感覚を押さえ付けるが、歯の根は噛み合わなかった。ともすれば叫び出してしまいそうだ。それ程までに感じる、狂気。どうして今まで気付かなかったのだろう。上手く隠されていたのか俺が鈍かったのか、ああ、だが今はそんなことは問題じゃない。どうやったら上手くこの状況から逃れられるのか、それを考えなくては。
 隣で俺が冷や汗を掻いているのを知ってか知らずか、不意にずいっとイヴァンが距離を詰めてきた。元々さして大きくもない2人掛けのソファだ。俺は簡単に縁に、追い詰められてしまう。

「っ、何すんだよ…!」
「そんなに怯えなくてもいいよ、ギルベルト君。何もしないから…まだ、ね」

 俺の心中など手に取るように分かるとでも言うように、イヴァンがにこりと微笑んだ。その笑みは俺には悪魔の嘲笑にしか見えなかった。息が忙しなくなるのを止められない。落ち着こうとキツく目を閉じると、ルートヴィッヒの姿が瞼の裏に映った。
 助けてと口が動きそうになる。それをすんでのところで止めた。俺はあいつを振り切ってきたんだ、助けなど求められる筈がない。求めることが許される筈がない。
 ルートヴィッヒ。
 口の中で呟くと、会えないという現実が急に重く伸し掛かってきた。


◆ ◇ ◆


 じゃあな、そう言ったギルベルトを俺は何故引き止められなかったのだろう。この頃そのことばかりを考える。
 あの兄が決めたことだ、余程のことでないと曲げないだろうと思っていた。俺に説明をしなくとも、きちんとした理由があるのだろうと思っていた。その推測は恐らく正しかったのだろう。けれど耐え切れずに兄さんと呼ばわった時、ギルベルトは僅かに背中を震わせた。泣きそうな顔さえ、見せた。
 思えば最初に話を持ち出され、それをギルベルトが快諾した日、何故だと問うた時もそんな顔をしていた。勝気で豪放なあの人が、くしゃりと表情を歪めた。それでも止めるとは、行かないとは言ってくれなかったから、俺は諦めるよりなかった。触れられなくなるのが辛くて、引き寄せて抱き締めてやることさえ出来なかった。掻き抱きたい衝動を、どうしようもないくらいに胸に抱えていたというのに。
 一人寝をするベッドは、布団が如何に体温を吸収して暖かくなっても薄ら寒い。ギルベルトが側にいないことがこんなにも堪えるとは、正直なところ思っていなかった。
 あの兄というのは今でこそ多少落ち着いたが、昔は方々に戦争を吹っ掛け戦線を飛び回っていた。幼い頃の俺は地盤が不確かで体調を崩しがちだったから、ギルベルトが側にいてくれないのが不安で仕方なかった。消滅の恐怖に怯えながら、早く帰ってきてくれと祈っていた。ギルベルトは帰るとすぐに飛んできて、ずっと側にいてくれた。あの声に優しく大丈夫だと言われると、不思議と心が安らいだものだ。
 その当時、もう二度と会えないかもしれないと考えたことは、何故だか一度とてない。俺はそれ程までにギルベルトを信頼していたのだと思う。兄が大丈夫だというのだから、心配することなどないのだと。
 だが今、盤石の地盤を手に入れた今、俺は不安で仕方がなかった。からりとした風を装って向こう側へ行ってしまったギルベルトのことが、気になって仕方がなかった。ギルベルトは大丈夫だとは、言ってくれなかった。残した言葉はじゃあな、それきりだ。短いその言葉に全てを込めたつもりなのだろうが、俺には別れの挨拶にしか聞こえなかった。
 またな、ではなく、じゃあな。次を約束しない言葉。ただサヨナラと告げるだけの、言葉。
 必ず帰還を約束した兄がそれをしないというだけで、俺は堪らない不安を抱いた。最早ギルベルトは俺にとって、兄というだけの存在ではないのだ。一番に心を通わせ合った恋人。その認識の方が僅かばかり、強い程だ。
 何となく憚られて、別れが決まってから当日まで、微かな接触さえすることが出来なかった。指先同士程の触れ合いさえ、避けてしまった。触れたら何がなんでも行かせないようにしてしまいそうで、自分のその衝動が怖かった。だが今では何故そうしなかったのかと後悔している。あの時強引にでも行かせてしまわなかったなら、俺は今こんな想いを抱くことにはなっていなかったろう。
 しかしそれは、ギルベルトの決意を踏み躙ることになる。身勝手な俺の感情で、ギルベルトの立場を悪くすることになる。そうしていたならそうしていたで、俺は思い悩んでいたのだろうな。
 纏まりがつかない止めどない思考に溜め息が出た。他のことは理路整然と考えられるのに、ギルベルトのこととなるとどうもいけない。ペースを乱されて理論を崩されて、感情的にしか考えられなくなってしまう。それは俺がどうしようもなく焦がれているからなのだろう。
 会いたい、呟けば想いには拍車が掛かる。

「貴方に会いたい…ギルベルト」

 自然と視線が向く方は東、兄がいる筈の方角だ。そうしたところで見える筈もない人を思いながら、俺はゆるりと目を閉じる。今日も正面な時間には眠れそうになかった。


◆ ◇ ◆


「ルッツ…」

 ぺたり、鏡に手をついて呟く。
 こちら側に来てどれ程の時間が経ったのだろう。俺は一体、何をされてきたのだろう。何があったらこんな風に、変わってしまうというのだろう。
 鏡の中の俺はまるで自分ではないような様相をしていた。イヴァンの影響が色濃い様に、吐き気がする。変わってしまった、変えられてしまった。こんな奴をルートヴィッヒは果たして、兄と認識してくれるのだろうか。怪訝な顔をするルートヴィッヒが易々と想像出来て、俺はぞくりと背筋を震わせた。
 衝き動かされるまま、拳を思い切り鏡に叩き付ける。耳障りな音を上げて砕け散ったそれは、俺の肌を薄く裂いた。色のない床に滴り落ちる血をぼんやり見つめると、破片に映った自分の顔と目が合う。
 血が凝ったような瞳の色に、がくんと膝が崩れる。破片が突き刺さるのも構わず、床にへたり込んだ。
 こんな姿で帰れる訳がない──これが自分勝手な振る舞いをしたことへの罰なのかと、俺は唇を噛み締めるよりなかった。






素敵世界普企画「せかぎるっ!」様に提出させて頂きました。