理由は下らないことだった。だがすぐにどうでもよくなるようなことだったからこそ逆に、お互いに引くことが出来なかった。気付けば大喧嘩に発展していて、ルートヴィッヒは足音も荒々しく出ていってしまった。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。ギルベルトは自分が投げた幸せのパンダを床から拾い上げた。軽々と避けられてしまったパンダは勢いよく床を滑った為、撫でると心地好い毛並みが乱れてしまっている。腕に抱えてもふもふとすれば、少しは気持ちが落ち着くようだった。毛並みを整えてやりながら、ギルベルトはちぇーと唇を尖らせる。
大人気ない反応をしてしまった自覚はあるが、何もあんなに怒ることはないだろうに。パンダに顔を埋めながらちらりと時計を見れば、もう日付が変わろうとしている。帰ってくる気配など微塵もないのに、ギルベルトは深く息を吐き出した。
意固地になる程のことでもない、悪かったと謝るのは簡単だ。技術が発達した今、連絡手段とていくらでもある。行き先が分からなくとも携帯電話に連絡を入れればいいだけの話。なのだが。
ルートヴィッヒの携帯電話は、ギルベルトの目前、リビングテーブルの上に乗っていた。電話をしてもメールをしても、そもそも携帯していないのでは意味がない。飛び出すにしても持っていけよ、と溜め息を吐かずにはいられなかった。本当に勢いのまま動いたようだったから、ルートヴィッヒは鍵も財布も持ってはいないのだろう。
身一つで出てくかよ普通。声に出して突っ込むと余計に空しさが増す気がした。
カチ、カチ、カチ、時計の秒針が休みなく過ぎ行く時を刻み続ける。どこに行ったのやら見当もつかないが、ルートヴィッヒはこれ以上待っていても帰ってはこないに違いない。流石に野宿などはしないだろうから、適当な知り合いのところに転がり込んでいるだろう。となれば帰ってくるのは早くて、明日の早朝だ。出ていったままの格好では仕事にいけないから、着替えに戻ってくる筈である。
それにしても、全く面倒臭いことになってしまった。変な意地など張らなければよかったと思うが、実に今更である。大体の状況を把握して落ち着くと、怒鳴り疲れたのか生欠伸が出た。このままぼーっとしていても仕方がないかと、ギルベルトはもう寝てしまうことにする。
幸せのパンダを所定位置に戻し、フリッツ親父の肖像画にお休みを言う。大好きなフリッツ親父の顔を見ても心はもやりとしたまま晴れなかった。
シャワーを浴びて適当に髪をタオルドライし、ベッドに寝転がる。久々の自分の部屋は何だか寒々しく、冷たい感じがした。無理矢理に目を閉じて眠ろうとしてみるが、一向に眠気は訪れない。寧ろ時間が経つにつれて目が冴えていくようでさえあった。ごろり、寝返りを打っても隣にまだ空きスペースがあることに、どうしようもない違和感を覚える。
ギルベルトとルートヴィッヒは付き合い始めてからも部屋はそれぞれ別で、お互いのパーソナルスペースを確保していた。どんなに仲がよくても一人になりたい時というのはあるものだ。
しかし就寝時は必ずと言っていい程──肌を重ねるにしろ重ねないにしろ──どちらか一方の部屋にいた。それは大概ルートヴィッヒの寝室で、男2人には多少狭いベッドで身を寄せ合うのは何故か心が安らいだ。他人の温もりを感じながら眠るというのはいいものだ。それが最愛の相手であるなら特に。
だが今、その人物はいない。隣にあるのはぽかりと空いたスペースばかりで、体温どころかその気配さえ感じ取ることが出来ない。
だから何だ、長期出張中など毎夜そんな状態だろう。珍しいことではないと自分に言い聞かせ、ギルベルトは眠りの糸口を探る。羊を数えてみたりひたすら無心になってみたり、最終的にはフリッツ親父に祈ってもみたが、効果はゼロだ。何がどう転んでも眠れそうにもない。しかし再び起き出して何かしようという気が起きないのもまた事実だった。
ギルベルトは仕方なくごろごろとしていることにする。そうしていればそのうち眠りに落ちる筈だ。無意識に隣に手を伸ばしながらギルベルトは思案する。万が一にでもルートヴィッヒが帰ってこなかったらどうしようかと。仕事場にもいなければ取り敢えず代理として行った方がいいだろう。それから上司に事情を説明して、いそうな場所を探して。その前に仲のいい連中に連絡を入れてみた方がいいだろうか。
などと考えているうちに、何だか次第に馬鹿らしくなってくる。ルートヴィッヒもいい歳なのだ、自分の責務を投げ出して雲隠れすることなどまずないだろう。そもそも今回の出奔の原因は瑣末な喧嘩である。いつもならば数瞬後には関係が修復出来ている程度の、もの。それが今回は延焼してしまったから、こんなにも不安になっているのだろうか。
ギルベルトは大きく息を吸い込み、細く長く吐き出す。気持ちを落ち着けようとする為の行為、けれどそれは役目を成さない。落ち着こう落ち着こうとする度に、どんどん不安になってしまう。
再会して以降、こんな風に喧嘩をしたのは初めてだった。ルートヴィッヒが行き先を告げずに出ていってしまうのも。連絡も取れない今の状況は2人の間に不可視の壁が出来てしまったかのようで、背筋を嫌な感覚が舐める。
ギルベルトはぎゅうと自分の体を抱き締めた。あんな思いをするのはもう沢山だという認識は2人に共通しているものだ。ルートヴィッヒがこの状況を謀って作り出したとは思えない。不安に思う余り、嫌な想像をしてしまっているだけなのだろう。きっと、そうだ。
「早く帰ってこいよルッツ…」
シーツを弄りながら呟いた言葉は思った以上に心細い響きを含んでいる。ギルベルトは失笑し、頭を振ってゆっくりと目を閉じた。
素敵企画「fake box」様に提出させて頂きました。