やぁ、ギルベルト君。
 そう声を掛けると彼は心底嫌そうな顔をして振り向いた。といっても、僕はその表情が作られたものだと言うことを知っている。
 国の生きる年数からすれば短かったけれど、それでもギルベルト君の反応を的確に理解出来るくらいは一緒にいたつもりだ。僕の出す話に興味津々で、でもそれを気取られたくなくて、結局機嫌が悪いみたいな顔をする。慣れた反応だったから、僕は大してどうと思うこともなく続きを口に出す。

「ギルベルト君がいた頃に作ってたアレね、漸く完成したんだ」
「あ? あー、あの原始的な方法で作ってたやつか」

 指示語を使ってもすぐに思い付く辺り、やっぱり気になっていたらしい。こっちにいる時からあれ何やってんだ、とかって興味示してたものね。僕に何か尋ねるなんて滅多にしない癖に。
 ギルベルト君は少しだけ相好を崩して、僕が次の言葉を紡ぐのを待っている。何ていうか、警戒心が強くて狡猾な割に、こういうところは酷く子供っぽいと思う。純粋と言えば聞こえはいいのだろうけれど。
 一見平和な世の中になったからって、あんまり気を抜かない方がいいんじゃないかな。昔みたいにすぐすぐ戦争になるなんてことはないだろうけど、でも、僕たちは国なんだから。何かあったら、何かあってから気を付けるんじゃ、困るんだよ? その辺りを君は分かってるのかな。
 って、ギルベルト君はもう国じゃなくなっちゃったんだっけ。一度国の身を捨てて、僕のところに来て国になって、ルートヴィッヒ君と再会してまた国から違うものに。国として生まれてきたのに国じゃなくなっても生き続けられるなんて、何だか変な話だ。ギルベルト君ってしぶといイメージがあるから今までそんなに妙に感じなかったけど。
 どうやってその生を繋いでいるんだろう。寄る辺はもうないのに。でもこんなにも確かに、彼はこの世界に存在している。
 おっと、閑話休題。そろそろ痺れを切らしそうなギルベルト君の為に、僕は本題を切り出すことにする。
 早くしないとルートヴィッヒ君に見付かっちゃうかもしれないからね。折角1人になったところを狙ったんだ、見咎められたら意味がない。ルートヴィッヒ君はギルベルト君と再会してから、ちょっと過保護に過ぎる。

「よかったら見にこない? 今暖かい時季だから観光には丁度いいと思うんだ」
「観光なぁ…確かにそういうのはしたことねぇけど」
「でしょう? 今なら完成を記念してイベントもやってるんだよー」

 いっそわざとらしいまでに僕はギルベルト君の気を引きそうな話題をばら蒔く。下心は全くない。
 …と言ったら嘘になっちゃうけど、それが主目的じゃない。遊びにきてもらって、あわよくば何か出来たらな、って、それくらいのこと。皆が出ていった1人の家は寂しいから、他人に訪れて欲しかったんだ。赤のって言う程でもなく、でも親し過ぎないくらいの誰か。考えた時真っ先に思い浮かんだのはギルベルト君だった。
 豪放磊落で気さくな癖、肝心な部分には立ち入らないし立ち入らせない。絶妙な関係を難なく取り続ける、勝気な亡国。彼なら誘いに乗ってくれるかもしれないと思った。そうして深くは突っ込まず、いつもの態度で僕に接してくれるかも、と。
 だってギルベルト君には僕に探りを入れる必要も、媚び諂う必要も、ないから。忌み嫌う理由はあるけれど、僕には好奇心が勝つっていうおかしな確信があった。あの短い期間でギルベルト君をそこまで理解出来たつもりはなかったんだけど。自分で気付いてないだけなのかなぁ。
 考えながら様子を窺うと、ギルベルト君は早くも好奇心に負けかけていた。僕にしてみればちょっと呆気ないなと思うくらいの単純さだ。でも彼のそういうところは嫌いじゃない。
 さてもう一押ししようかな。
 ギルベルト君の心を決めさせる為の一言は、残念ながら口にすることが出来なかった。向こうから凄く怖い形相のルートヴィッヒ君がやってきたからね。あーあ、見付からないうちに話を纏めちゃおうと思ったのにな。

「どうしたの、ルートヴィッヒ君。怖い顔してるよ」
「兄貴に関わらないでもらおう。ギルベルト、行くぞ」
「え、ちょっと待てよルッツ…!」

 後ろ髪を引かれている感じのギルベルト君を、ルートヴィッヒ君は引っ張っていってしまう。
 遠ざかりながら振り向いたギルベルト君に、僕はのんびりと手を振った。機会はまだあるもの、また話し掛ければいいだけだよね。


◆ ◇ ◆


 俺はギルベルトの手首を掴んだまま、彼を引き摺るようにして歩いていた。
 イヴァンとギルベルトが一緒にいるのを発見した時、俺は言い様のない恐怖感に襲われた。あそこまで心臓が跳ねたのは、とても久し振りだったと思う。
 駄目だという気持ちにつき動かされて、気付いたらギルベルトをイヴァンから引き離していた。あんな光景、周りにはどう見えていただろうか。後日、菊やフランシス辺りから妙な冷やかしを受けなければいいのだが。あいつらの考えていることは時々よく分からん。
 ずんずん進んでいく俺に、ギルベルトは戸惑った視線を向けている。小言を言ったことは数あれど、こんな風にして強引に彼の行動を阻んだのは今回が初めてだ。不安があるだろうし、何より、何事だと思っているのだろう。貴方は俺の気持ちなど少しも知りはしないからな、兄さん。

「ルッツ、おいルッツ!」
「…何だ」

 とうとう上がる抗議の声に、俺は振り返りもせずに答えた。途端にギルベルトがムッとしたのが分かったが、言い直さないし立ち止まらない。
 俺は悪くなどない。無防備なギルベルトが、悪いのだ。あんなに簡単にイヴァンを身近に寄せて。さも普通の友人のように言葉を交わして。自分が何をされたか忘れた訳ではあるまいに。俺がどんな思いをしたか知らない訳ではあるまいに。
 どうしてあんな風に、あの男を近寄らせることが出来るのだ。理解出来ない。全く、理解出来ない。
 会議の会場から遠く離れた人気のない廊下、そこで俺は漸くギルベルトの腕を放す。手首に指の後が残っていたが、謝る気にはなれなかった。
 俺が容易く握り込んでしまえる程に痩せた原因が誰なのかを分かっているのだろうか、本当に。

「何のつもりだよ、いきなり割り込んできて」

 発される声には険が含まれている。だが昔程には威圧感がないそれに、俺が怯むことはない。寧ろ衰えが感じられて苛立つくらいだった。
 貴方をそんな風にしたのは誰だか答えてくれ。俺が大好きだった貴方を変えてしまったのは誰だか、答えてくれ。
 兄さん、なぁ兄さん。自分は変わってなどいないといった様子でいるが、確かに貴方は変わったんだ。誰から見ても分かる程に変わった。そのことに自分だけ気が付かないなんて随分と滑稽な話じゃないか。
 俺は、俺はな、兄さん。どうせ変わってしまうなら、自分の手で貴方を変えたかったんだ。
 ギルベルトにはその意味が分かるだろうか。理解、出来るのだろうか。
 俺がイヴァンに先を越されて、どれ程悔しかったか。俺がイヴァンと一緒にいるギルベルトを見付けた時、どう思ったのかを。分からない、のだろうな。
 俺は壁を背にするギルベルトの脇に手をつく。あくまでそっと、間違っても荒々しい音など立てないように。
 ギルベルトは自分の片側を塞がれたことにムッとした表情になった。

「貴方は本当に無自覚なのだな」

 そう言えばギルベルトはきょとりと目を瞬かせる。何のことを言われているのか、本当に分からないといった調子で。そういう人なのだと分かってはいても苛付いた。その勢いに任せ、もう片方の手を勢いよく壁につく。ばんっとなかなかに大きな音が上がって、ギルベルトは僅かに体を跳ねさせた。
 俺が怒っているらしいと漸く察知した彼は、それでも自分に落ち度があるとは思っていない風だ。そのことが態度から窺い知れる。この人が滅多なことでは自分の非を認めないのは十二分に分かっている。だからそうカリカリするな、感情に身を任せてはいけない。自分にそう諭すが、もう随分と頭に血が昇っている状態では効果も薄い。
 どれだけ無防備で危なっかしいのかギルベルトに分からせてやりたいと獰猛な欲望が囁く。それは間違いなく悪魔の囁きだった。俺たち以外は誰もいない廊下、腕の間に納まって逃げる気配のないギルベルト。俺がそういう行動に出てしまうのは、最早ある意味で必然、だった。

「……ッ!!」

 腕の間隔を狭め、より逃がさないようにしてから身を屈める。よもや俺がそんなことをすると思っていなかったであろうギルベルトは、完全に逃げるタイミングを失っていた。
 だから薄く開いた唇を塞いでやった。
 驚いて目を見開く愛しい人の口内に俺は舌を滑り込ませる。ギルベルトから反応がないのは、キスの下手な国だとかいう喜ばしくない称号を頂いているから、ではない。テクニックなどこの場には微塵も関係がなかった。何せギルベルトは余りのことに放心して、目の前の俺さえその目に上手く捉えられていないのだから。
 唇を放してもやはりギルベルトからの反応はない。気拙ささえ感じさせない沈黙を断って、俺はギルベルトの耳元に囁き掛ける。この行為と共に、言葉もが兄の記憶に刻み込まれればいいと思いながら。

「もう少し危機感を抱くべきだよ、兄さん」

 でなければ取って食われてしまう──俺を含めた貴方を狙っている連中に。イヴァンなどに渡す気はない、口の中でだけ呟いて、俺は寄せていた顔を離す。
 ギルベルトはずるずると腰を落としその場にへたり込んでしまった。これでは午後の会議には出席出来なさそうだ。助け起こすのは逆効果そうだから止めることにして、俺はくるりと踵を返す。
 これで少しは懲りてくれるといいのだが。恐らく効き目は余り長くは、続かないのだろうな。






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