そっと扉を押し開けると、冷え冷えとした空気が俺を室内へと迎え入れた。初夏、石造りの聖堂の中はひんやりと涼やかだ。休日のまだ早い時間に俺がここを訪れたのは、祈りを捧げる為ではない。またここに逃げ込んだ人を日常の中に連れ戻す為だ。
今回は何がきっかけだか知らないが、毎度何かある度に引き籠もるのは止めてもらいたい。連れ戻すのが一苦労だ。
辺りを見回すと、目当ての姿はすぐに見付けることが出来た。祭壇の前で突っ伏している人影がある。まるでそこで額突いていて、そのまま眠り込んでしまったような。いや、実際のところそうなのだろう。
俺は軽く溜め息を吐いて、そちらに向かって足を踏み出した。気配も足音も殺していないというのに、起きる気配は感じられない。ぐっすりと眠っているらしい。
俺はすぐ脇で膝を折り、彼に声を掛けた。
「兄さん、」
そう、この人は俺の兄だ。名はギルベルト・バイルシュミットという。
薄暗い聖堂の中、ステンドグラスから降り注ぐ光でその姿は浮かび上がるようだ。白雪を髣髴とさせる肌、銀糸の髪。着ている服の色目が薄いせいで、白いという印象がより際立っている。
俺は小さく息を吐き、そろりと頬に指を這わせた。こんなところで寝ていたせいか体温がかなり下がっている。それでも確かに脈拍が感じられた。ちゃんと生きている。そのことを確かめて漸く、少しばかり安心する。
何の前触れもなくギルベルトが姿を見せなくなると、嫌な予感が肌を舐める。同じ国を分かち存在しているとはいえ、感覚が繋がっている訳ではない。何も言わずにいなくなられると、俺にはそれが単なる外出なのかいつもの逃亡なのか、それとも──彼の滅亡なのか、区別がつかない。だから所在が知れないことに恐怖する。休日の早朝であっても、起き出して探さずにはいられない。その生死を確かめずには、いられない。
指は閉じられた瞼に辿り着く。固く瞑られているのではないのに、やはり開く気配はない。ギルベルトは、まだ目覚めない。
俺は指先でそっと睫毛を辿り、背中を丸めるようにして屈み込む。あとほんの少しで触れ合う、その時にギルベルトはぱちりと目を覚ました。目前に迫る俺に彼は目を見開き、更に近付こうとする体を押し返す。
「何、してんだよ…!」
上がった声は悲鳴に近かった。俺を押し退けて距離を取ろうとするギルベルトの手首を、掴まえて床に押し付ける。遠慮なく体重を掛ければギルベルトは苦痛に顔を歪めた。ルツ、と絞り出すようにして窘めるような声が上がる。
だが俺は動かない。離してやらない。解放など、してやりはしない。寧ろ押さえ付ける手に力を込めると、小さく苦鳴が漏らされる。
あぁ、貴方は弱くなったな。俺が弱くした。俺を強くする為に貴方は弱くなったのだ、自ら。つまり俺を押し退け逃げられないのは、自業自得ということだ。こういうことを容易く出来るようにさせたのは、貴方なのだぞ、兄さん。
再び顔を寄せると、ギルベルトは身を捩って嫌がった。顔を背けて決して俺を受け入れまいとする。俺のやることなすことを何だかんだ言いながら許容してきたギルベルトにしては珍しい態度だ。最近ではちょくちょく目の当たりにすることになってきたそれ。
それが俺は気に入らない。俺の兄の行動として認めることが出来ない。そんなことをする筈がない、してはならないのだ、俺の兄さんは。
「、なせ…離せよ…っ」
「貴方が逃げないというのなら離してやるが」
「………」
交換条件を口にすると、ギルベルトはぴたりと押し黙る。逃げないから離せとは、言えないのだ。逃げたいから離せと言っているのだから、この人は。
俺から逃げる。ギルベルトが俺から逃げる。
そんなことが今までにあっただろうか。今この時代になるまで、一度とて、ない。
俺はギルベルトの痩身を自分の体と床の間に挟んだまま、三度距離を詰める。
「止めろ、せめてここじゃな…っんぅ…」
三度嫌がったギルベルトの声を、俺は物理的に塞いでしまう。目を見開いた彼は、俺のシャツに爪を立てた。
ギルベルトがここに逃げ込むきっかけが何なのか、俺は知らない。だが理由は痛い程に知っている。恐ろしくなるのだ。
俺と愛し合っているという事実がギルベルトを苦しめる。強い信仰心を未だ捨て切れないこの兄を苛む。だからギルベルトはここ──聖堂に逃げ込んで、神に祈る。道を外れてしまったことに対して許しを請う。俺を受け入れ肯定し、己も俺のことを深く愛していながら、信仰から逸れたことを良しとしないのだ。
それはある意味で正しく、ある意味で実に間違っている。俺を受け入れたその時に、ギルベルトは盲目的な信仰を捨ててしまうべきだったのだ。そうしなかったから今、こうして苦しんでいる。自業自得と言えばそれまでだ。だがこの現状を作り出したのは、突き詰めて考えれば俺の方。
ギルベルトは俺を拒まない、同時に信仰も捨てられない。そのことを分かりながら耳元で愛を囁いたのは俺なのだ。信仰深い兄をここまで引き摺り下ろしたのは、俺なのだ。
そっと唇を離すと、ギルベルトはわなわなと体を震わせた。怒りを叩き付けようと振り上げられた拳はしかし、どこにも振り下ろされることなく投げ出される。ギリと奥歯を噛み締める音がやけに大きく響いた。
「ふざけんなっ…何でこんな…!」
「俺を受け入れたのは貴方だ。苦しむのを分かりながら貴方はそうした。俺が、そうさせた。もう足掻くのは止めにしないか…兄さん」
そう言って、俺は薄く開けられた唇に軽く口付けを落とす。触れるだけのそれ、だが兄弟が交わすものにしては色を含み過ぎている。
ギルベルトは狼狽て視線を彷徨わせた。何事か言おうとして何度か息を吸い込むが、全て失敗に終わる。無意味に口を開閉させるようすは、陸に上げられた魚が空気を求めて喘ぐのに似ていた。その様を愚かしいと思う、だが同時に愛しいとも思う。
兄さん、貴方は逃げられないんだ。俺からは逃げられない。自分をそんな風にしたのは、他ならない貴方ではないか。だから、だから──
「俺と共に堕ちてくれ、ギルベルト」
三度触れ合った唇、ギルベルトは今度こそ拒もうとはしなかった。答えの代わりに、ゆるゆると背中に腕が回される。耐え切れなかったように細い涙を目尻から溢れさせながら、腕に緩やかに力が込められた。
それがギルベルトの答えの全てだった。そしてそれだけで十分だった。
素敵独普企画「芋収穫祭」様に提出させて頂きました。