「………何だお前、どっから来た」

 そう不審の声を上げたのは、記憶にある最古の姿より若く、見慣れない格好をした──俺の兄、だった。
 意外と物持ちのいい人であるから、俺が知らない時代の衣服が倉庫に眠っていたりすることはよく知っている。何を思ったか引っ張り出して着た姿を見たこともある。だがこの服はまるで見たことがなく、また目前の兄は、俺の知る彼とは少し雰囲気を異にしていた。
 何と言ったらいいのか、やけに地盤がしっかりしている。あの不安定さ、ともすれば食い潰してしまうのではないかと危惧するような希薄さが、今の兄には、ギルベルトには、ない。
 答えを返さないでいると、ギルベルトはずいと距離を詰めてきた。俺は伏せていた顔を上げた姿勢で、顔を上から覗き込まれる。陽光を受けて輝く銀糸、ルビーのような紅瞳はいつ見ても変わらぬ美しさだ。
 …ん、待て。ちょっと待て。俺はどうして伏せていた顔を上げた? ついさっきまで自室で山と積まれた書類を片付けていた筈だ。こんな首が痛くなる姿勢で顔を伏せている訳がない。そもそも兄が部屋に入ってきたなら気付くだろう。
 そこで俺は漸く、椅子が自分のものではないことに気がいった。自宅のそれらは確かに昔から使っている年代物だが、これには劣る。というかこれは長椅子ではないか。まるで教会の参列席のような。
 ぐるりと辺りを見回すと、そこは正しく石造りの教会だった。大仰な装飾に飾り立てられていない、ごく質素な建築だ。湛えられた静謐な空気には、実に聖堂然としたものがある。
 はて、こんな教会が国内にあったろうか。首を捻る俺の額を、ずびしっとギルベルトの指が突いた。

「聞いてんのかコラ。何なんだお前、国にしちゃ見たことねぇ顔だな」

 変な奴、言いながらとすとすと額をつつかれる。俺に向けられた視線には警戒と好奇心が綯い交ぜに含有されていた。こんな風に見られたことは、未だ嘗てない。俺の兄であるギルベルトは、こんな風に俺を見ない。
 ということは、この兄さんは俺の知る兄さんではないということか。俺を知る兄さんではないと、いうことか。
 ………どこだここは何だこの現象は、句読点含む500字以内で科学的に説明しろ!



「ふーん…つまりお前にとっちゃここは過去ってことか」
「ああ…恐らく俺はまだ生まれてもいない」

 何とか頭の整理をつけて──その間ギルベルトは抵抗がないのをいいことに物珍しそうに俺を触り倒していた──説明すると、ギルベルトは興味深そうな様子でそう言った。
 俺としては貴方の方が興味深いとは、決して口に出さない。黒の長衣を纏った姿はなかなかに、何というか、その、扇情的に映る。服の下に仕舞い込まれ隠された体を暴いてやりたい。
 と思ってしまうのは、俺がギルベルトと兄弟以上に深く交わったからなのだろう。こらそこ、どこが?とか言うんじゃない! そんなもの決まっているだろう兄さんのア……げふん、失敬。
 どの時代も落ち着きがないのは同じなようで、ギルベルトはくるくるぱたぱたよく動く。お蔭で普段と違う格好が視界の端に絶えず入ってきて、それが気になってしょうがない。触りたいと思うが触ってしまうと十中八九ひっ剥しそうだから自重、自重だ俺。それくらいの忍耐は持っているだろう!何かやらかして万が一正しい時代に戻れなくなったらどうするんだ。

「──んな…」
「? 今何と言っ、」
「お前に神の加護がありますようにー、ってそんだけ」

 問うた俺の額に口付けたギルベルトは、ケセッと特有の笑みを漏らす。その表情は柔らかく、愛らしいものだった。つい側に寄せて抱き締めてしまう。ギルベルトは一瞬驚いた顔をして、それでも緩やかに抱き返してくれた。
 ぽすぽすと背中を叩く様子、それは幼い頃にされたのと同じものだ。俺のことを知らなくとも同じ人なのだと思うと、自然と腕に力が籠った。いつもなら苦しいから止めろと言われるくらいの力だ。それでもギルベルトは何も言わず、優しく抱いていてくれる。
 腕の中の体はしっかりとしていて、細いながらもしなやかな筋肉がついているのが分かる。まだ衰えていない──寧ろ全盛期の頃だろうか。
 俺の知らないギルベルト。俺を知らないギルベルト。だが確かに俺の兄である、人。
 埋めていた顔を上げると、どうしたと言うように首を傾げられた。小鳥のような可愛らしさにくらりとくる。落ち着こうと深く吸い込んだ空気は、仄かにギルベルトの匂いがした。逆効果だ、実に宜しくない。

「にいさ」

 駄目だと思いながら俺は口を開き────首にごすんと、手刀を食らった。



「に、兄さん?! 何をするんだ貴方は…!」
「おお、起きた。お前声掛けても揺すっても鼻摘んでも起きねぇんだもんよー」

 俺様すっげぇ心配したんだぜ。
 そう言う人は、俺がよく知る兄だ。俺をよく知る兄だ。
 状況を確認してみると、書類を片付けている最中に寝入ってしまったようだった。ペンを持ったまま机に突っ伏してしたらしい。珍しい失態だ。疲れが溜まっているのだろうか。
 思い切り打たれた首筋を擦りつつ、俺はケセケセ笑うギルベルトを見遣る。
 あれは夢、だったのだろうか。それにしてはやけに感触やら体温やらがリアルだったが。いや、夢か否かはどうでもいい。それよりも今やるべきことはだな。

「兄さん、物持ちのいい貴方のことだ、公国頃の服もまだあるのだろう?」
「ふぁ? そりゃ探せば出てくるかもしんねぇけど」
「そうか、ならば二人で探すとしよう」
「何だってそんないきなり…って、引き摺んな自分で歩くっての!」
「楽しみだな、実に」
「だから何なんだよお前は……ったくよ…」

 あの服を着た貴方にあれやこれや出来ると思うと今から楽しみでならないよ、なぁ、兄さん。