ルートヴィッヒが泣いている。声を押し殺して、決して誰にも縋らずに。俺が慰めてやらなければ。俺が抱き締めてやらなければ。そう思って手を伸ばす。それは空を切り、決してルートヴィッヒに触れることは適わない。
 それを見て、涙の粒が大きくなった。少なくとも俺にはそう見えた。あぁルートヴィッヒ。ルートヴィッヒ。ルートヴィッヒ。俺の王、俺の弟、愛しい人よ。そんな風に泣かないでくれ。頼むから。どうか。
 苦笑を浮かべて、俺は壁に凭れる。それは立っていだけで大分疲れたからだった。衰えたな、と思う。昔からゆるゆるゆるゆると、俺は衰えてきた。ルートヴィッヒと出会ってから、少しずつ。ここまで残っていられたのは奇跡に近い。
 デカくなったな、と感慨深いのは、いつの頃と比べているからだろう。出合った当初のルートヴィッヒはどこもかしかしこも柔らかく、少し力を入れたら潰してしまいそうだった。戦に明け暮れていた俺は、随分おっかなびっくり手を伸ばしたものだ。頭をがしがし撫でてやると、ルートヴィッヒはがさついた武骨な手を嫌がることもなく、仄かに嬉しそうな表情をしたものだ。
 ぞんざいに扱ってもよくなってきたのと稽古をつけ始めたのは、多分同じ頃だ。慣れたってのもあったんだろうが、あの辺りから俺は屈託なくルートヴィッヒに触れられるようになった。人間で言えば青年期に入り始めた頃か。俺は緩やかに衰え始めていたように思う。
 二度の大戦を超えて、分断を超えて、ルートヴィッヒは逞しく育った。成熟したと言ってもいいだろう。それを側から眺めて、触れて、実感して、実感出来て、俺は幸せだったのだろう。ドイツ統一を夢見た兄弟たちはもう、その個を失っている。残ったのは俺だけで。その俺も今、こうして消えていこうとしている。
 それは喜ぶべきことだ。国として大成したということなのだから、喜ぶべきだ。それなのにお前はそうして泣いている。ルートヴィッヒ。なぁ、ルートヴィッヒ。
 俺は少しこの弟に甘過ぎる。それは昔から兄弟たちに言われ続けたことだった。末の子で俺に懐いている奴をどうして邪険に出来るかと反論したものだ。だが確かに、俺は甘過ぎたんだろう。求められるままに全て与えて、俺がいずれいなくなるのだということは、その日が来るまで言い出せなかった。生き延びてやるつもりだったのか、悲しませるのが嫌だったのか。理由は自分でもいまいち分からない。
 兆しは少し前からあった。一瞬どこか一部が透明になるだとか、そういうことが。来たのか、と、俺が思ったのは意外にもそれくらいだった。昔馴染たちには勘付かれ色々言われたが、ルートヴィッヒには言うなと釘を刺しておいた。自分で言うつもりだった。それでもずるずる引き伸ばして、誤魔化せなくなってから漸く言った。それがついさっきだ。
 全身透けたからって、何も今すぐ消える訳じゃあない。経験上はまだ時間が残されている。このまま俺は緩やかに緩やかに見えなくなっていって、記憶からも消えていくのだ。ルートヴィッヒの記憶から。そして吸収されて一部になる。
 だから正確には今生の別れなんかじゃないんだが、ルートヴィッヒにとっては同義らしかった。酷く顔を歪めた弟は、ぼろりと涙を零した。ルートヴィッヒがそんな風に泣くのは壁が壊れた時以来のことだ。あの時俺たちは泣きながら笑っていた。再会を喜んで抱き合っていた。今は涙しかない。抱き締めることが、出来ない。

「ルートヴィッヒ、」
「許さないぞ、兄さん…消えるだなんて、そんな急に、」
「急じゃねぇよ、別に。お前が気付かなかっただけだ」

 気付かなかった。そう、ルートヴィッヒは気付かなかった。
 餓鬼の頃は俺がほんの少し怪我してるのさえ目敏く見付けたのに。目の前で霞んでるってのに、ルートヴィッヒは気が付かなかった。それだけ俺の存在は薄くなってきていたってことだ。意識しなければそこにいることを認識出来ないくらいに。それくらい、俺はルートヴィッヒにとって必要なくなっていた。
 精神面的な部分はまた別個の問題だろう。そのことは俺だって十二分に理解している。何せ俺がそうだからだ。理解していて覚悟もしていて、それでもルートヴィッヒに認識され難くなっているってのはキツかった。目の前にいるのに視線が素通りするんだ。ショック受けない奴がいたら会ってみたいもんだな。
 まぁそんなこんなで、俺は何となく気持ちを整理することが出来た。が、ルートヴィッヒにとっては確かに急なんだろう。何せ今知ったんだからな。気付かなかったのが悪いと言えばそれまで。告げなかったのが悪いと言えば、やはりそれまでだ。

「貴方は…それでいいのか」
「ザクセンもブランデンブルクもバイエルンも…他の奴等も皆お前と共にある。俺もその中に加わるだけさ」
「………」
「ただそれだけだ」

 まぁ今すぐさよならって訳じゃねぇしな。付け加えれば、ルートヴィッヒはきょとりと目を瞬かせた。幼っぽい仕草に微笑が口の端に昇る。図体はデカくなってもまだまだ餓鬼だなぁ。しょうがねぇ奴。
 俺はくっと笑って、だが伸ばし掛けた手は引っ込めた。折角止まり掛けた涙をまた流させるのは馬鹿ってもんだ。そして俺様は馬鹿じゃねぇ。坊ちゃんに何と言われようと、考えるよりちょっと早く手が出るってだけの話だ。
 そんなことを考える俺を余所に、ルートヴィッヒは何か思い立ったような表情だ。ブラコンなこいつのこと、時間があるのなら俺を失わない何らかの手立てを打てる筈だと思っているに違いない。望み薄なのを分かりながら、それでも縋らずにはいられないんだろう。それはルートヴィッヒの性分であるし、国としてはまだまだ若い奴の特権だ。俺くらいになると諦めちまうというか受け入れちまうというか、するからなぁ。
 それで満足するのなら、やりたいようにやればいい。止めたって聞きやしないだろう。足掻けば足掻いた分だけ結果が出なかった時に辛くなるってのは、もうとっくに知っている筈だ。それでもやるというのなら。それでも一縷の望みに縋るというのなら。俺は止めない。止めることなんて出来やしない。
 可愛い弟の切実な願いを叶えてやりたいと考えない訳じゃない。俺自身も積極的に動いたなら、ルートヴィッヒの望まない事態は回避出来るのかもしれない。だがその反面で、俺はやはり予定通りの消滅を願うのだ。
 ルートヴィッヒの大成こそが俺の、俺たちの大望だ。遥か昔に描いた夢だ。何人もの人間が、国が、その為に散った。俺だけが身勝手な私欲でその責務から逃れていい筈がない。逃れることなど許されない。
 あぁ、だからどうか早く。






すべて忘れてください
(出来れば存在ごと、すべて)
(そして永劫に恙なきよう、我が王の君)






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