それはたとえば、日常のふとした瞬間だ。リビングで居眠りをしているのを見付けた時。一緒に犬たちを散歩させている時。夕食を食べている時。そして、おやすみのキスをする時。
 俺がこの衝動というのを覚えたのは、もう随分と前のことになる。何がきっかけだったのかはいまいち覚えていない。だが確かに感じたそれは、事ある毎に呼び覚まされて俺を悩ませた。
 獰猛な牙を剥きそうになるのを抑え、過ぎ去ってしまうまで遅々と進む時間を耐える。これの困るところというのは、完全に治まったかと思えば、またすぐに再発してくるところだった。本当に些細なきっかけでまた顔を出すのだ。こちらからしたら堪ったものではない。
 何度か抑えが利かずに欲求を果たしてしまいそうになったことがある。が、それは何となく上手く回避されてきた。あの人の気紛れを手放しで喜べるのはその時くらいだ。突飛のないことを言って俺を呆然とさせたり驚かせたりしては、彼は無意識に難を逃れてきた。俺の大切な兄、は。
 因みにその兄、ギルベルトは、俺の隣に寝転がっていた。張り替えたばかりのベッドシーツの上である。
 洗ったシーツを張り直すのは大概は俺の役目で、今では一人でぴしりとする術を心得ている。今日も今日とて張ろうとしていたところ、珍しくギルベルトが声を掛けてきたのだった。例によって彼の気紛れが発動したのだ。
 自分から手伝いを言い出した癖に適当に済ませようとするのを叱りながら、漸く張り終えたのが30分程前だろうか。太陽の匂いがするそれに、ギルベルトはぼふんと倒れ込んだ。俺が何を言おうと知らぬ顔だ。いい匂いだぜー! とケセケセ笑う頭に拳を振り下ろしたかった。皺が寄るだろうが皺が。
 とはいえ、俺にギルベルトを引き剥がすだけの技術はない。仕方なく端に腰を下ろして読み掛けの本を取り出したら、なかなか切り上げられなくなってしまった。日は傾いてそろそろ夕食の準備をしなければならないころだ。だがもう少しだけ。せめてこのラージャの秘宝が誰の手に落ち着くのやら見届けるまで。
 そうして少しずつ読書の時間を引き伸ばす俺を、ギルベルトは咎めようともしない。ちらと視線を投げてみると、どうやら寝てしまいそうであるらしかった。紅の瞳が半分瞼に隠されかけている。
 とろりとした眼差し、それが不意に、俺を捉えた。
 ぞくりと項が粟立つ。刺激されたのは最奥に隠した欲望、その一端。暫く顔を覗かせていなかったそれは途端に息を吹き替えし、鎌首を擡げる。本から片手が離れる。
 ギルベルトに向かって伸びそうになったそれを、俺はすんでのところで制した。何を。何を考えているんだ俺は。こんな風に手を伸ばして、ギルベルトに一体何をしようとしたのだ。自問しながら見下ろす手は緩く開いている。何かを掴みたかったように。何かを手の内に納めたかったかのように。
 心底から眠そうなギルベルトは、俺の様子に不審を抱かなかったようだ。しかと定まらない視線をぼんやり、俺が持つ本に向ける。何を読んでいるのかと思ったのだろう。だが表紙は帆布製のブックカバーに覆われている。何をどうしてもタイトルは窺い知れないだろう。
 ギルベルトもそのことに気付いたと見え、のたりと手をこちらに差し向けてきた。生白い腕。それが無防備に俺の眼前に晒される。
 一度は押し止どめたと思った欲望が、すぐさま反応してざわりとさざめく。それを知らないギルベルトは俺が切り整えてやっている爪で、かり、とブックカバーを引っ掻いた。取り払ってしまいたいのだろうが、そんな動作では万年掛かっても成し遂げられないだろう。俺に取れと言っているのかもしれないが、それは出来ない相談だった。俺は今それどころではない。
 かりかりブックカバーに少しばかり伸びた爪を立てるギルベルトは、まるで構って欲しくて控え目に戯れる猫のようだ。そう思うと可愛らしい耳と尻尾が見えるような気がした。もふもふしたい。いやいやいや、落ち着け俺。物凄く落ち着け。何かが間違っているぞ。
 また持ち上がり掛かっている手を俺は必死で抑える。撫でた、くない。もふもふした、く、ない。したくないとも。あぁしたくないとも。ただ可愛がってやりたいだけだ!
 カッと開眼しかけたが、ぎりぎりのところで踏み止どまる。頭の片隅に何故かジャージに鉢巻き姿の菊が現われて、何故か盛大な舌打ちをして消えていった。同時に猫耳猫尻尾の幻想も消滅する。何だったんだ今のは。
 しかし一旦湧き上がってしまった衝動というのはなかなかに鎮まってくれないものだ。ギルベルトがこんな風にぽやーっとしているのではなく、いつものように騒がしかったら紛らわせやすいのに。はぁ、と溜め息が出る。それを聞き咎めてか、ギルベルトがきょとりと小首を傾げた。
 それは確信犯的犯行か。そうなんだろう。そうだと言ってくれ。

「ルッツ…?」

 上がる声は微かに掠れている。ざらついたような響きを持つそれは耳によく馴染んだものだ。その筈だ。だが今の俺には全く別のものに聞こえた。もっと魅力的で甘やかな。
 これ以上自分を抑えていられる自信がない。その体に手を伸ばして、この猛る欲望が満足するまで貪ってやりたい。それを実行するのは簡単だ。抑え付けている欲求──封印された悪魔のように暴れるそれを、解き放ってやるだけでいい。ただそれだけで。
 だが俺はそんな単純な行為をずっと避けてきた。忌み嫌ってきた。何故ならそれは、ギルベルトを傷付けることに他ならないからだ。思うままに振る舞ったなら、俺は言葉の意味通り、ギルベルトを傷付けることになるだろう。それも取り返しがつかない程に、深く。
 それは駄目だ。してはならない。なによりも俺自身がそうなることを望まない。そうしてやりたいと思っていながら、絶対的に忌み嫌ってもいる。おかしな話だ。全く矛盾している。
 俺のこの衝動がどこから来るものなのか。そんなことは十分過ぎる程に分かっている。何せ自分のことだ、少し考えたらすぐに分かった。それは実に単純な理由からで、それだけに質が悪かった。
 どうしたものか。気付いた当時から考えているが、答えは未だ出ない。いや、出ているようなものなのだが、俺はそれを認めたくないのだ。そうすれば自分もギルベルトも辛い想いをするのが分かっているから。だが逆にそうしなくても、結局は同じことなのだろう。遅かれ早かれ傷付くことになる。二人共が同じようにして。
 ギルベルトは俺の反応を訝って、僅かに眠気を飛ばしたようだ。しきりに瞬いては俺の顔を覗き込んでくる。紅い宝石のような瞳。そこに映る俺、は。
 俺は咄嗟に目を逸らした。映り込んでいる自分の姿がやけに不快で、醜悪なものに見えたからだった。それはまるでどす黒い欲望が形を成したかのようで。
 俺は本を閉じ、徐に立ち上がった。それを追うようにギルベルトが上半身を起こす。向けられる視線は真っ直ぐに、俺を捉えている。懐疑も恐怖も含まれていないそれが俺をひたと見据える。
 湧き上がったのはやはりどうしようもない衝動で欲望だ。救い難いな、と我ながら思う。どうしてこうも手の付けようがないのか。どんな名医も匙を投げ出すに違いない。処方すべき薬が見当たらない、と。
 俺は手を伸ばし、今度こそギルベルトに触れた。願い続けた場所とは違う位置、それでも心は暗い愉悦に染まる。そろりと白い頬を撫でて、俺はそれ以上進まないうちに手を退けた。それは危ないと感じたからで、事実、それ以上触れていたらギルベルトを傷付ける羽目になっていたかもしれなかった。

「…どうした?」
「兄さん」

 敢えてその呼び方を選ぶ。兄さん。家族としてのそれを。特段珍しくもないそれに、ギルベルトは不審を抱かない。決して、気付かない。
 俺は口の中でぼそりと決別を告げた。兄弟を大幅に越えた関係に。抗い難い仄暗い衝動に。美しい我が兄、この人を傷付けてしまうくらいなら、いっそ愛さない方がまだマシだ。そうだろう?






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