「、触んな」
そう言って兄さんは俺の手を払い除けた。漸く一緒になれてからもう大分になる。けれど兄さんは俺に必要以上に触れられることを拒絶する。今日だってそうだ。もう暫く会えなくなるのに、もしかしたらずっと会えなくなるかもしれないのに。今日この日でさえ、兄さんは俺に触られることを拒む。いつもより突慳貪な態度で、冷たい目をして。
しかし俺にはそれが、虚勢であることが分かっている。そうしなければこの苦しみに耐えられないのだろうことも。
「ギルベルト」
名を呼べば、彼は微かに体を震わせる。兄さんにだって分かっているのだ。この別離は外部的なものが要因だから、俺たちの意思では決して戻れない。分かたれてしまえば、そこで終いだ。再会出来る保障などどこを探してもない。兄さんは国であった時に比べて、随分と頼りなくなった。背などとっくに追い越してしまったし、腕だって俺の方が明らかに太い。嘗ての兄さんを感じさせるのは、自分と同じ色の瞳、その鋭さくらいだろう。
けれど、いくら変わってしまっても彼は愛しい兄だ。だから離したくなかった。行かせたくなかった。あぁ、神が存在するというのなら今こそその姿を現わすべきだ。俺では兄さんを止めることは、出来ない。
「行くな」
「…今更何言ってんだよ」
兄さんはわざとらしく溜め息を吐いてみせる。確かに、今更だ。今更行くなと行ったところで、目前に迫ったそれは逃れられない。どんなに嫌だろうと何だろうと、俺たちは分断されてしまう。戦勝国の言いなりになるなど、甚だ不本意だ。あんな奴等の言葉一つで兄さんと別れられる程、俺は淡泊でも冷淡でもない。そのつもりだ。
行かせたくない。この厚い壁の向こうになど、行かせたくない。心底嫌っていた奴のところに兄さんを行かせるなんて、そんなことはしたくない。
兄さんは提示されたそれに、二つ返事で同意したという。俺はそれが今日になっても信じられない。そんな訳がない、兄さんが俺と離れることを是とする筈がない。そう思い込もうとしている。
兄さんは常に俺と共にあった。俺がまだ国として不安定で未熟な頃も、漸く国としての形を成してきた頃も、帝国となってからも。兄さんはほとんど忘れ去られた国の化身であるのに、それでも確かに俺の側に存在した。だから未来永劫、その関係が崩れることなどないと思ってしまった。そんなことが有り得る筈がないのに。
もう直前に迫った分割が、俺に厳しい現実を叩き付ける。兄さんは俺の側を去る。
「俺は兄さんを行かせたくない」
兄さん、俺が彼をそう呼ぶことは、最近めっきり減った。だから兄さんは俺が久し振りにそう呼ぶと、酷く複雑そうな顔をする。兄さん。それは兄さんを縛り付ける言葉だ。俺の側に、兄さんを縛り付ける為の言葉だ。兄さんの中では、俺はまだ確かに弟という存在であるから。俺の気持ちなど疾うに分かっていて、応えてくれる気があるにも拘らず、俺は弟のままだから。兄さんは俺の想いに気付いていることを態度に出さないし、それに対する自分の感情も露わにしない。
それでも確かに、俺たちは互いを想い合っている。俺が兄さんが別離を承諾したことを信じられないのは、そのせいもあるのだろう。俺が兄さんであったなら、絶対に肯首などしない。
「そんなこと、」
その後に続く言葉は発せられることはなかった。兄さんは唇を噛む。体の脇で握られた拳が僅かに震えている。息苦しい沈黙に耐え切れなくなったように、兄さんはくるりと俺に背を向けた。ぼそりと呟かれる言葉。
──達者でな。
それが永遠の別れの言葉のようで、俺は兄さんを引き止めようと手を伸ばす。けれど追い縋ろうとする俺を、兄さんは頑なに拒絶した。発せられる雰囲気が、俺に兄さんを引き止めることを断念させる。兄さんは一度決めたことは滅多に覆さないのだ。分かっている。そんなことは嫌と言う程、分かっている。俺は成す術もなく、去っていく背中を見つめる。
あぁ、行ってしまう。この壁の向こうに、行ってしまう。引き止めたい、と心の声が叫ぶ。その腕を引いて、抱き寄せて、胸の奥の想いを告げてしまいたい。しかしそれは許されない。兄さんは俺を拒む。いつだって兄さんは俺に必要以上に触れられることを拒んだ。それは、この別れを予見していた、から?
兄さんの背が壁の向こうに飲まれる。見えなくなる。もうこの手は届かない。俺は歯噛みして、聳える壁に拳を叩き付けた。
見つめたその背
(俺を頑なに拒む背中)
(けれど俺はそれが震えていることを知っていた)
(嗚呼なんて強情な貴方!)