ピチャン、とどこかで水が滴る音がした。雨漏りでもしているのだろうか。雨の気配はどこにもないのに。
ギルベルトは重い瞼をゆっくりと押し開ける。目に入るのは最早見慣れた、染みの浮く剥き出しのコンクリートの天井だ。何度か瞬きを繰り返し、そこがいつもの部屋であることを確認する。それは安堵と同時に、微かな失望をギルベルトに与えた。今日もまたいつもと同じ一日が始まる、のだ。
ギルベルトはのろのろと体を起こす。窓のない暗い部屋、その中にある家具は横たわっていたベッドだけだ。他には何もない。剥き出しの壁とそれに同化するような鈍色の扉。窓は締め切られているのではなく、元々存在していなかった。現実世界と完全に切り離された室内にいると、正面な感覚が段々と摩耗していくようだった。否、実際のところもうかなり摩耗しているのだろう。
長い断絶の間じわじわと磨り減らされた体力の回復には、随分と時間がかかった。すっかり色素の抜けてしまった瞳では柔らかな日光さえ凶器にしか感じられなかった。嬲られ痛め付けられた体は少し動くだけでも息を切れさせ、鋭い痛みを訴えた。時間が経つにつれて体力は徐々に回復した。しかし風雪に閉ざされた国に囚われていたことは、確実にギルベルトを蝕んでいた。未だに少し無理をすると臥せってしまう。
ギルベルトはひたりと冷たい床に足を下ろした。けれど立ち上がることはしない。萎えた足はかなり痩せた自分の体重を支えることさえ儘ならないことがある。寝起きのぼんやりした状態ではいつに増して危険だ。自分の体重さえ支え切れないなんて、何て不甲斐ない。たとえ立ち上がって歩き回っても、行ける場所などこの室内以外にはないのだが。
ギルベルトはごくごく小さく溜め息を吐いた。それは自分に対してのものであり、同時に今の状況な対してのものでもあった。
狂っている。完全に外界を排除するこの部屋も。そこにギルベルトを閉じ込めた彼も。そして囚われることを良しとしている、自分も。何もかもが狂っている。目に映るもの全てが、狂いきっている。それを作り出したのがあの無邪気な邪悪さを持った男だと思うと、吐き気がした。あの男さえいなければ、自分は幸せの中で消えていけたのに。ずるずると生を引き延ばされて与えられたのは苦痛と恥辱ばかりで。それは愛しい彼に救い出されてからも悪影響しか及ぼさなかった。もうその支配下にはいないのに、未だに掌の上で踊らされているようだ。むかっ腹が立つ。
「起きたのか、兄さん」
「、ヴェスト」
僅かに軋みながら扉が開く音に、ギルベルトはそちらに視線を向けた。少し意外そうな表情をしながらルートヴィッヒが顔を覗かせる。ギルベルトは自分の口元が自然に緩むのを感じていた。その反応はもうほとんど癖のようなものだった。ルートヴィッヒの顔を見ると安心するのだ。自分はあるべき場所に帰ってきたのだと実感出来る。もうあんな思いはしなくていいのだと。
ルートヴィッヒは中に入ってくると、ギルベルトの隣に腰を下ろした。きっちりと軍服を身に着けているから、どうやら今は朝らしい。これから仕事に行くのだろう。大抵昼近くなるまで寝ているものだから、出勤前のルートヴィッヒに会うのは久々だ。
ギルベルトはじっと弟を見つめる。もう何もかもを彼に追い越されてしまった。昔は自分がルートヴィッヒを擁護していたのに、今はルートヴィッヒが自分を擁護している。それはとても惨めで、けれど同時に嬉しいことでもある。ルートヴィッヒ、自分の主は立派に育った。望んだように逞しく、立派に。
「どうした?」
怪訝な色を滲ませた問いにギルベルトは何でもない、と首を振る。ここは確かに狂っている。けれど確かに自分の居場所なのだ。
外に出たい、自由に過ごしたいと思う。しかしちゃんと暮らしていけるのか、と聞かれると自信がない。消し去りたい過去を思い出させるものに出会うようなことがあったら、きっと自分は耐えられないだろう。そのことをギルベルトはしっかりと理解している。克服したつもりでいるが、悍ましい記憶をまだ心の奥底で引き摺っているということを。
だから狂気に身を任せる。どうせ一度は消滅を覚悟した身だ。それにあの男に受けていた扱いからすれば、何だって苦ではないと思えた。
ルートヴィッヒの指がそっと頬に触れる。ギルベルトは反射的に瞳を伏せた。そうすれば緩やかに導かれ、軽く触れ合う唇。決してそれ以上深くならない口付けは、啄むように何度か繰り返される。
うっとりと瞳を閉じるギルベルトの耳元で囁かれる言葉。それはやはりどうしようもなく狂いきっているのだけれど、不思議と胸を温かくさせる。ギルベルトは口元に笑みを上らせ、逞しい弟の体を抱き締めた。
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