長い、永久にも思えるような長い断絶。それはついこの前──引き離されていた期間を考えれば瞬きの間のようだ──嘘のように瓦解した。それから約一年後、ギルベルトは俺たちの家に帰ってきた。以前とは丸きり変わってしまった、ギルベルトとは思えない姿で。その姿を見た時の俺の心境は、筆舌に尽くしがたいものだった。
どれ程悔いたか分からない。あの時手を放すべきではなかったのだ。何があっても。痩せた体は少し強く抱き締めただけで折れてしまいそうで。色素が抜けてしまった髪や目は、どうしようもなくイヴァンの影響を感じさせた。冷たい雪に閉ざされた国、そこに繋がれていたことは確実にギルベルトを衰えさせた。
再会から半年が経って少しは落ち着いてきたが、それでもまだギルベルトは不安定だ。今だって以前なら寝込まない程度の風邪を拗らせて臥せっている。
「入るぞ、兄さん」
控え目に扉を叩くと返事だか呻きだか分からない声が返ってくる。俺は手に持った盆を出来るだけ斜めにしないように努めながら、部屋の扉を開けた。真昼だというのに室内はぼんやりと薄暗い。臥せっている時は殊更に直射日光を嫌うから、遮光カーテンを締め切っているのだ。清々しい日の光はほとんど遮られ室内を照らさない。
濃い色調の家具が多い為か、ベッドに敷かれたシーツの白さがやけに強調されて見えた。そこに身を横たえているギルベルトも同様に。
俺はサイドテーブルに盆を置くと、枕元のライトをつける。ギルベルトはその淡い光だけでもうっすらと開けていた目を伏せた。彼からすれば強い刺激だったのだろう。申し訳なく思うが、こう薄暗くては手元が見辛い。食事の介助が儘ならないのは困るのだ。
「食べられそうか?」
消化によさそうなものを作ったが、と続ける前にギルベルトの首が横に振られる。これでもう4食目の拒否だ。いい加減に何か胃に入れておかなければ治るものも治らないと思うのだが。しかし無理矢理食べさせても意味がないだろうから、俺はごく小さく溜め息を吐くに止どめておく。
食べたくなったら自分から言ってくるだろう。ギルベルトはそういう性格をしている。俺はそのことをよく分かっている。だからするべきことだけをして、後はそっとしておいてやるのがいいのだ。
けれど。こんな風に弱った姿を見ると心配でしょうがない。
幼い頃は内情が不安定なせいで、体調を崩して寝込むのは俺ばかりだった。そんな俺を看病してくれたのは当然ながらギルベルトで。忙しいだろうに、暇を見ては何度も様子を見にきてくれた。その顔を見ると苦しさが幾分か和らぐように感じていたものだ。頼り甲斐のある兄、ギルベルト。そんな彼がこんな風に臥せっているという現実は、俺を不安にさせるには十分過ぎる。
「……ヴェスト、」
そっと囁くように呼ばれ、俺は意識をギルベルトに向ける。彼は丁度、上体を起こそうとしているところだった。手を貸してやると素直にそれを受け入れて──そのまま俺の胸に身を預けてくる。熱に浮かされて熱い吐息が俺の首筋を掠める。
微かに香ったギルベルトの匂いに、俺はばつの悪さを覚えた。こんな時にそんなことに思考が及ぶなんて、全くどうかしている。相手は病人だ。俺は思考の片隅に生まれてしまった考えを打ち消そうとする。それなのに、ギルベルトは煽るような言葉をその唇に乗せるのだ。
「ずっと側にいろ…どこにも行くなよ…」
「、兄さん…」
俺はそっと薄い肩を押し返す。けれどギルベルトは離れるのを嫌がって、余計に縋り付いてきた。逆効果も甚だしい。熱のせいで潤んだ瞳──深い紅が、俺をじっと見つめる。言外に温もりを求められて、俺は非常に困った。添い寝を請われればするし、一日中抱き締めていたっていい。ギルベルトの要望には出来るだけ応えてやりたい。
だがただでさえ落ちている体力を磨り減らさせるような真似は、極力したくないのだ。だというのに。
「キスして、ヴェスト…」
ギルベルトは囁くように強請ってくる。それにきっと深い意味などない。俺がちゃんと側にいて、自分は愛されているのだと、彼は確認したいのだ。そう分かっているのに勘違いしてしまいそうになる。求められていることには、確かに変わりないんだが。
口付けを交わすのは何も初めてではない。親子としてのそれも、兄弟としてのそれも、恋人としてのそれも、何度とて交わした。肌を重ね合わせたことすら、ある。それでも微妙に躊躇ってしまうのは、多分ギルベルトが弱っているからだ。今の彼の様子は、自分が国として成立した後の様子によく似ている。あの時もギルベルトは随分と辛そうだった。けれど表情は明るくて、幸せそうで。決して今のように沈んだ物悲しい顔はしていなかった。
そっと触れるだけの口付けをすれば、ギルベルトはうっとりと目を閉じた。更に先を求めるように体を預けてくる。
「兄さん、」
窘めようと開いた口に、舌が差し込まれる。舌先で口蓋を擽るように撫でられて、俺は諦念に小さく溜め息を吐いた。
「っ、ぁ…ふぁ……!」
喘鳴とも取れる息の合間に、ギルベルトが甘く掠れた声を上げる。基礎体力が減った上に風邪で弱っている今こんな行為は辛いものでしかなさそうだが、その口元は緩く弧を描いている。つい先程まで熱で脂汗を浮かせていたというのに。その事実を知りながら彼の体を貪っているのは、間違なく俺自身なのだが。
ぴたりと身を寄せ合うと首元の鉄十字が触れ合って微かな音を立てた。断絶中、それぞれ連合側の管理下にありながら、隠し通して没収を免れたそれ。個人としては一目見ることも出来なかったあの頃、俺とギルベルトを繋ぐものは隠し持った鉄十字しかなかった。歴戦を共に潜り抜けたペンダントは、かなり傷だらけになっている。それでも、再統一を果たしても尚ひっそりとつけ続けるのは。ただ単に愛着があるものだからなのか。それとも──まだ互いを遠くに感じているからなのか。
「あ、ぁ、ヴェスト…っ」
発熱も手伝ってか、きゅうきゅうと締め付けてくるギルベルトの内は蕩けそうな程に熱い。俺は無茶苦茶にしてやりたいのをどうにか抑えながら、ギルベルトの額に口付けを落とす。そうすると擽ったそうに紅の瞳が細められた。
変わってしまった色彩。嘗て俺がそっくりだと言われ続けた彼の容姿は、当時の面影を驚く程に残していない。けれど唯一、瞳に宿る獣の如き光だけは、俺のよく知るギルベルトのままだ。いっそ心地好く感じるような、その獰猛さ。それが俺は好きだった。否、好きだ。髪が肌が瞳が声が仕草が、ギルベルトの全てが、好きだ。愛している、誰よりも。
「どこにも行かせたくないのは俺の方だ」
口の中で呟く。
あの日、ギルベルトは俺の制止を振り切ってあちら側へ行ってしまった。思い出す度にそれは俺の胸を締め付ける。もしもギルベルトではなく俺が行っていたなら、現状が少しは違っていたのではないか。そんな詮ないことをつい考えてしまう。今後同じようなことになれば、今度こそ俺は耐え切れないだろうに。それはきっとギルベルトにも言える。
「こ、のまま…ぁ…溶け合っちまえばい、のに……っ」
「…あぁ、」
兄弟揃って似通ったことを考えていたらしい。俺は笑みを漏らし、ギルベルトの顎を掬い上げる。そのまま深く口付ければ、本当に一つになってしまえそうな錯覚に陥った。
俺の何もかもをギルベルトのものに、ギルベルトの何もかもを俺のものに。それは甘美な、けれど決して適わない夢想なのだろう。
離さないでね、恋人よ
(どうか融和しそうな程に抱き締めていて)
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