さわさわと風が吹いていく。それなのに少しも涼しく感じないのは、今が夏の盛りだからなのだろう。縁側に腰掛けて、冷たい麦茶を片手に夕涼み。それがこの頃の私の日課。
 傷が癒えてきて好きに動き回れるようになったから、心配して上が寄越してきていた世話人はもういない。そのことに少しだけほっとしている自分に、馬鹿らしいと苦笑する。彼は私の一部、我が国民なのに。監視の目に感じられたなんて、私は本当に随分と病んでいたらしい。体も、心も。
 戦中に使っていた刀は、脂で使い物にならなくなっていたから捨ててしまった。新しいものは見繕ってさえいない。もう手にしたいとは思えなかった。それは私の素直な感情であるのと同時に、国民の感情でもあるのだろう。
 私は、私という国は手痛い打撃を受けた。それはもう、立ち直れないのではないかと思う程に。それでもどうにかここまで持ち直した。
 大丈夫。少なくとも国としての機能は戻ってきている。疲れ切っていた人々も、少しずつ活気を取り戻してきている。もう大丈夫。私はまだやっていける。

「…ポチ君、どうしました?」

 くいくいと着物の袖を引かれ、私は振り返る。そこにはポチ君がいて、心底心配そうな顔で私を見上げていた。
 私はきょとりと目を瞬かせる。ポチ君とは長い付き合いだけれど、彼は言葉が話せないから言いたいことが分からないことが無きにしも非ずで。どうしてそんなに心配そうな顔をしているのだろう。その表情、いつかどこかで見たような。──そういえば、出征の時にもそんな表情をしていたっけ。
 私の軍服の裾をくいくいと引っ張って、行かないでくれと縋るような表情。大丈夫です、すぐ帰ってきますから、と私は言った。言ったけれど、戻ってきたのは数年後だった。しかもその時の私には意識がなくて、目覚めたのは病院のベッドの上。家に帰ってきたのは更に後で、それでもポチ君は駆け寄ってきて喜んでくれたっけ。
 私はポチ君の頭をやわやわと撫でる。ポチ君は気持ち良さそうに尻尾を振るけれど、心配そうな表情はまだ残っていた。心配することなど、どこにもないのに。
 散々憎み合い殺し合った人たちと話し合って歩み寄って、少しずつ国交が回復しようとしている。アルフレッドさんは私を気にしてよくこちらにやってくるようになった。彼の行動は、少しは監視と牽制を含んでいるのだろう。それでも気遣ってくれているのはよく分かった。私を狭い部屋の中から連れ出した人。私の手を取って導いてくれた人。私を打ちのめした、人。

「大丈夫、」

 声に出して呟く。
 何も心配はいらない。大丈夫、大丈夫大丈夫。復興は進んでいる、私の怪我も治った。内にも外にも脅威はない。
 それなのに、私はどうしてこんなにも空虚な心持ちなのだろうか。自分の進んできた道を頭から否定されたから。それも原因に違いない。国の在り方、考え方を正反対と言ってもいい程に変えていっているから。まだ対応しきれていない、それも原因に違いない。それでも、そんな理由をいくら見付けても、少しだけ空虚は残る。何か違う理由がある、自分が残るのはその理由に気付かないからだとでも言うように。
 一体何だというのだろう。理由なんてもう考え付かないのに。首を捻る私のところへ、ポチ君が何かを咥えて持ってくる。それは古ぼけたアルバムだった。昔から何かにつけて撮ったのを手ずから貼った。
 懐かしいですねぇ、目を細める。ポチ君はとさりと私の脇にアルバムを置いて──風でページがパラパラと捲れた。私の視線はそこに、釘付けになった。
 嗚呼。嗚呼、嗚呼。このアルバムは。
 古ぼけて日に焼けた、昔は鮮やかな緑だった表紙。緑は彼の色だ。彼の。写真の中で薄く笑っている、彼の。遠い、私と同じ島国の人。
 アーサー・カークランド。
 私が愛して、裏切った、大切な大切な人。私は彼の写真を、わざわざ別のアルバムに貼ったのだ。とても特別な人、だったから。
 どうして──どうして忘れられていたのだろう。戦中あれだけ頭から離れなかったのに。どうして綺麗さっぱり忘れられていられたのだろう。私は彼を裏切ったのだ。愛していたけれど、心から愛していたけれど、それでも裏切ったのだ。
 連合の人たちとは何度も顔を合わせた。そこに彼の姿はなかった、いつも代理が来ていた。だから思い出せなかった。何故。大切な会議に代理を立ててまで、会いたく、ない?
 私は込み上げる感情に唇を噛む。空虚の理由は彼だったのだ。分かった、分かってしまった。最後のピースがぱちりと嵌まる。
 もう決してあの頃の関係には戻れないであろうことが、私をこんなにも虚しい気持ちにさせていたのだ。






泣きたくなるほど風が優しかった
(涙として流してしまえば、貴方への想いも消えるでしょうか)






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