会議室に足を向けたのは、後10分程で休憩時間が終わるという頃だった。議長が遅れていくことなど許される筈がないし、早めに動くのは性分でもあった。だが、アーサーはこの時程自分の行動を後悔したことはなかった。通り掛かった廊下、硝子張りの向こうのバルコニーに、フランシスの姿があった。
それだけならまだいい。先程までも、何とか平静を装って会議に集中することが出来た。いつもの辺りで茶茶が入らないことが、異様な違和感となって心をもやもやさせたけれど。
しかし、バルコニーにいたのはフランシスだけではなかった。隣に見慣れた悪友──アントーニョの姿。一緒にいるだけならば、まだいい。その思いに反して、彼らの距離は不要な程に近かった。紙コップを置いたフランシスが、自分からその距離をゼロにする。
見て、いられなかった。
勝手に立ち止まってしまった足を叱咤して、凍り付いた視線を引き剥がして、アーサーは走り出す。背後から菊の声が聞こえた気がしたが、制止にはならなかった。最近沈み込みがちな自分を心配して側にいてくれる彼に、その態度は不躾だったかもしれない。それでも、そんなことに構う心的余裕は皆無だった。頭が酷く混乱している。
どうしてフランシスはあんな。誰に見られるともしれない場所で、あんな。
あぁ、あぁ、本当は分かっている。自分の言葉が全ての引き金で、だからフランシスは自分を避け、客観的に見れば自分と彼は「別れた」ことになっているのだ。分かっている。分かって、いる──けれど。
その事実を突き付けられるには、まだ時間が足りなかった。フランシスがああも簡単に、他の人間に靡くなんて、思ってもみなかった。普段から浮ついている優男に対してそういう判断をしたのは、フランシスが本気なのだと感じていたからだろう。それを認めた上で応えるのがどうしようもなく恥ずかしくて、気付いていない振りをしていたが。もっと自分の気持ちを素直に伝えていたら、あの時あんなことを言う羽目なはならなかったのだろうか。言ったとしても、こんな事態には陥っていなかっただろうか。
考えれば考える程に、思考は袋小路に入り込んでいってしまう。落ち着こうとする度に心が乱れる。
「……ん、で…」
人気のない非常階段に辿り着いて、アーサーはずるずると壁を背に座り込む。荒い呼吸の間に漏らした声はやけに掠れていた。
ひく、と喉が鳴って、ぼろぼろと頬を熱いものが流れ落ちていく。スーツの袖で乱暴に拭っても、アーサーにはそれが何なのか分からなかった。というよりも、分かりたくなかった。
どうして泣かなければいけないのだろう。あんな男の為などに、どうして泣かなければいけないのだ。放っておけばいい、そして忘れてしまえばいい。きっとそれがいいのだ。あんな──あんな、愛しい奴なんて。
ぼろりぼろり、溢れ出す涙は一向に止まる気配を見せない。あぁ後6分で会議が始まってしまう。早く戻らなくては。議長が遅れていくことなど、許される筈がない。
だから早く、止まれ。止まれ止まれ止まれ止まってくれ。
念じても祈っても、暫く視界を歪ませる液体が引いてくれることはなかった。
現状を作り出したのはあの一言
(んなこと嫌って程に分かってる、けど)