廊下に飛び出すと、角を曲がっていくスーツの背中が見えた。全力疾走して逃げることはないでしょうが、とぼやきながら、フランシスは追い付く為に自分も走り出す。がむしゃらになるなど、格好悪いから普段は絶対にしないのだが。
しかし今回だけは別だ。見られて困るような人間は全員会議室の中。追い掛ける相手はアーサーで、しかも事態が事態だ。格好に構っている場合ではない。フランシスはその程度には空気が読めるつもりでいる。
いつもなら、ああいう類のからかいなどアーサーは鼻にも掛けない。それなのにあんな反応をしたのは、現在が「いつも」にあたらないということなのだろう。
何故か? 自分とアーサーは付き合っていて、尚且つ分かれたから。
それ以外には考えられない。原因を作ったのがアーサーの言葉だったのも、その推測に多少の信憑性を与えた。アーサーはお得意の、所謂ツンデレで、心にもないことを口走ってしまうことがままあるのだ。実はあの言葉もそうであったなら、辻褄は面白いくらいに合う。余りにきっぱりと言い切られたものだから、今まで考えもしなかったが。
アーサーは後ろを気にする余裕もないらしく、手近な部屋を見付けてそこに飛び込んでいく。勝手に使っちゃ不味いでしょう、そう思いつつもフランシスは続いて部屋に入った。そこはどうやら控室のようなものらしく、簡素な椅子ではなくシンプルながらもソファが置かれている。一足先に入ったアーサーは、そこに倒れ込むようにしてクッションに顔を埋めていた。
「アーサー、」
声を掛けると、びくんと彼の肩が跳ねた。本当に追ってくる気配に気が回っていなかったらしい。若しくは、菊か誰かが慰める為についてきているとでも思ったのだろうか。
顔を上げないまま、絞り出すような声だけが俺に投げつけられる。
「出てけよ、クソ髭」
口振りは普段と何ら変わらないのに、そこにいるのは普段の彼ではない。全てを拒絶するかのように背を向けるアーサーの姿は、まるであの頃のようだった。生まれたばかりで右も左も分からないうちから肉親に疎まれて、荒んでいた幼子の時代。
「なぁ、アーサー」
「っ、出てけって言ってんだろ…!」
思い切りなげられるクッションをフランシスはひらりと交わす。吐き捨てる声は、漏れる嗚咽に掠れていた。
こんな風に他人を拒絶するアーサーを見るのは一体いつ振りだろう。老大国と呼ばれるようになってプライドも相応に高くなってからは、そんな顔は見せなかった。2人きりでいる時であれ、絶対に。
「泣くなよ、そんな風に。お前に泣かれたらお兄さん、どうしたらいいか分かんなくて困るんだけど」
昔なら逃げるのを無理矢理捕まえて抱き締めてやることも出来たけれど。大して体格差がなくっなってしまった今は、殴り飛ばされるのが落ちだろう。何もかもを拒絶する背中──震える肩に触れることは、敵わない。
とすれば、フランシスに出来ることなど言葉を紡ぐくらいだった。幸いにアーサーは耳を塞いでいない。
「アーサー、俺たちさ、やり直さないか?」
いきなり本題を口にすると、アーサーは体を強張らせた。気が付かなかったことにしてフランシスは言い募る。
「愛してるんだ。どうやっても忘れられないくらいね」
「ここのとこ、お前のこと考えると夜も眠れない」
「お前の代わりなんて誰にも出来やしな、」
「………お前、よくそれだけ恥ずかしいこと言い続けられるな」
聞くに耐えなくなったのか、口の中で呟くようなアーサーの声が言葉を遮る。
彼は少しだけ、ほんの少しだけ、肩越しに振り返ってフランシスを見ていた。その目に宿るのは呆れに近い感情。
「必死なのよ、俺も。…やっとこっち向いたな、アーサー」
「…、」
肩を竦めてみせながら、フランシスは静かに告げる。本音、だった。アーサー以外をここまで愛せるとは、何をどう考えても思えない。
不愉快そうに眉を寄せたアーサーはまたも外方を向こうとする。それを阻む為に、フランシスは語調を強めた。
「あんな風に分かれるの、俺は嫌だよ」
自分の一言が蘇ったのか、アーサーはギクリと動きを止める。その反応はさながら、探偵に真相を言い当てられた犯人のようだ。気分を落ち着かせるように細く深く息を吐く音が聞こえる。
「嫌なんだ。なぁ、アーサー…あれってお前の本心?
それなら俺も潔く諦める」
こつり、一歩一歩静かに距離を詰めながら、フランシスは舌に言葉を乗せる。
本当は、潔く諦めることなど出来ないと思う。けれど本気でアーサーが自分を拒絶するならば、そうしようという気はあった。付き纏って苦しめるなんてしたくはない、から。彼は愛しい愛しい人だから。
「忘れるのは難しいと思うけどね」
付け足すように独り言ちて、フランシスはアーサーの隣に腰を下ろす。自分を食い入るように見つめていた緑の瞳は、迷い躊躇うように虚空を彷徨った。罪人が死刑宣告を待つような、何とも居心地の悪い空気が漂う。
何度か言葉を詰まらせた後、
「あ、あんなの……あんなの嘘に決まってんだろばかぁっ」
折角止まりかけていた涙をまた溢れさせて、アーサーは力なく言い放つ。
フランシスは自分からは抱き付いてこられない不器用な恋人を、優しく抱き締めた。
「愛してるよ、アーサー」
切って繋いでまた明日
(で、どんな顔で戻るつもり?
お兄さんとしてはこのまま戻らなくても全然い)
(調子に乗んなばかぁっ!)