豪奢なホテルの廊下、盛装に身を包んだフランシスはある扉の前に立っていた。かれこれ30分になるだろうか。中の人物が出てくる気配は一向にない。
ちらりと腕時計に目を遣って、フランシスは徐に腕を上げた。手袋に包まれた手を緩く拳の形にし、軽く扉をノックする。こんこんこん。しかし返事は愚か物音一つ返ってこない。そこには確かに人がいる筈なのに。
小さく息を吐いて、フランシスは控え目に声を掛ける。
「ジル、ジルベール?」
「俺はギルベルトだっ!」
言葉の荒い怒鳴るような声は、しかし男のものにしては少しばかり高い。聞き慣れた声だ。今は緊張なのか何なのか、僅かに強張っているが。
やれやれと肩を竦めて、フランシスは扉に凭れ掛かる。一体何をやっているのやらいつまで経っても出てきやしないのだ、ジルベール、もといギルベルトは。彼──ではなかった、彼女はフランシスが名前を自国読みするといい顔をしない。今は部屋に籠っていて顔が見えない訳だが。
「で、準備終わったの、ギルちゃん?」
「………まだ」
「もうすぐ時間になっちゃうんだけどな…お兄さんが手伝おうか?」
「絶対入ってくんな!」
噛み付くような言い方で拒絶され、フランシスは苦笑した。長々と時間が掛かっているのは、普段着慣れない格好をしようとして奮闘しているからだろうか。フェリシアーノやロヴィーノに頼んで店を回ったらしいことは聞き及んでいる。彼女にとってそれはとても勇気のいることだったろう。何せ昔から男として生きてきていて、女らしい格好などしたことがないのだから。
因みに彼女が怒る一番の呼び方は直隠しにしている本名のマリア、である。嘗て似合わないと散々に馬鹿にされたこともあるのだろうが、彼女は自分を女たらしめるものを徹底的に嫌う。その筈だった。
けれど今回、ギルベルトはドレスを着るという。誰が何と言おうと軍服か燕尾服、ダンスだって男性パートしか踊らなかった癖に。今日に至るまでにどんな心境の変化があったものか、フランシスには及びもつかない。
「お兄さん早くギルちゃんのドレス姿見たいなー」
「…やっぱ止める脱ぐそんで帰る」
室内でびしりと空気が凍る気配があってから、早口の言葉が返ってくる。
ご機嫌を損ねてしまったらしい、フランシスは慌ててフォローに入ることにする。男らしいかと思いきや、意外なところで繊細なのだ、彼女は。だから細心の注意を払って接しなければならない。まるで棘だらけの薔薇を摘む時のように。しかしいくら注意していても、予測不可能なところに地雷はあるものだ。
「からかったりしないからさ…脱ぐってことはもう着れたんでしょ?
恥ずかしがらずに出ておいで」
優しく声を掛けるが、彼女はまだご機嫌を損ねたままらしい。罵倒する言葉さえ返ってこない。普段男友達扱いをしていて、本人もそれに甘んじているものだから、性別相応の対処というのは実に難しかった。つい如何にも女らしい美人と比べてしまうし。
駄目だ駄目だ、ギルは女の子ギルは女の子ギルは女の子。自分に言い聞かせるようにぶつぶつと口の中で唱え、フランシスは腕時計に目を遣る。残された時間はもう10分もない。早いところ支度を済ませてもらわなければ。
遅れて登場するなんて直前に喧嘩でもしたようで堪らない。ドレス姿のギルベルトを見せびらかすには、まぁ、好都合なのだろうけど。そんなことをしたら怒るんだろうな、フランシスは小さく息を吐く。
こうなったらしょうがない、強行手段に出るか。駄目元で取っ手を回すと、何故か扉はするりと開いた。
「……あら?」
慣性で室内に足を踏み込むと、そこは正しく混沌が支配する空間な成り果てていた。放り出され散乱したストールやアクセサリーの類。ドレスが入れられていたであろう箱もぞんざいに放置されている。
その向こうに、ギルベルトがいた。濃紺のイブニングドレスに身を包んだ彼女は、フランシスの登場に顔を引き攣らせる。
「ばっ、入ってくんなって…!」
慌てて物陰に隠れようとするギルベルトだが、立っているのは鏡台の前、つまりは壁際だ。身を隠せるようなものは何一つ置かれてはいない。仮に近くに何かあったところで、着慣れないドレスに身を包んだ状態で素早く動けたかどうか。
柔らかな布地は些か女らしい丸みに欠けるギルベルトの体を上手く隠している。だがそれでいて野暮ったさはなく、寧ろ洗練されているようですらある。流石はヴァルガス兄弟、見る目は確からしい。そのお蔭で女の格好に慣れていないギルベルトは怖じ気付いてしまったようだが。
フランシスはくすりと笑って、あわあわと落ち着きのないギルベルトに手を差し出す。握手を求めるようなものではなく、淑女をエスコートする時のそれで。
「もう時間になるよ…皆を待たせちゃ悪いだろ。さぁ」
準備はできましたか?お嬢さん
(Ja、声と共に重ねられた手はいつもよりずっと華奢に見えた)
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