ギルベルト、そう呼べば彼は即座にこちらを向く。それが常だった。
 その立場上、ギルベルトは私の身近に侍っていることが多い。よく笑いよく喋りよく動く彼というのは、見ていて飽きることがない。愛犬たちと戯れている様を眺めるのは息子を見ているようで心が和んだ。あれで公式の場や戦場ではちゃんと国の威厳を発揮するのだから、どうやら彼には優秀な切り換えスイッチがついているようだ。辺りを睥睨する瞳は鋭く冷徹な光を宿していて、ふとするとぞくりと背中を震わされた。
 嘗て王子であった頃の私は、何度もその視線に晒されたことがある。お前は王の器ではない、叩き付けられる言葉は、今の彼からは想像が出来ない程に冷徹だった。その記憶は頭にこびりついてなかなか消えない。ギルベルトが私のことを親父と呼んで慕ってくれるようになっても、尚。
 だが彼の態度が間違いであったとは思っていない。国の身なれば、その行く末を左右することになる者を検分する権利はある。栄えるも滅びるも、王位を継ぐ者次第で決まることがあるからだ。王子であった頃の私は、彼に拒絶されて当然だったように思う。この国の、ギルベルトの頂く王となるには、余りにも性質を異にしていた。
 その時分のことを話題にすると、ギルベルトは決まって罰の悪そうな顔をする。視線を逸らしながら忘れてくれと懇願に近い声音で言われるのは、なかなかに新鮮な体験だ。ギルベルトのそういった態度があってこそ、私はここに王としていられるというのにね。
 ふふ、笑みを漏らすけれど、それに反応するギルベルトは今側にいない。調練の監督に少しばかり遠方の駐屯地に出向いている筈だ。今頃叱咤の一つでも飛ばしているだろうか。よく通る声は軍事国を負う彼にはよく似合う。尊大な態度も、荒っぽい仕草も。意外に繊細な部分もあって、柔らかく笑えることを知っているのは、何人くらいいるのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考えていると、足下に伏せていた犬が急に顔を上げた。尻尾を振りながら扉に向かって駆けていく。誰か来たかな、視線を上げると──入ってきたのは、ギルベルトだった。

「ただいま親父」
「お帰り。早かったね、ギルベルト」
「おう。あんまりにも基礎がなってねぇから訓練どころじゃなかったぜ」

 俺は怒鳴りにいったんじゃないっつーの、とギルベルトが犬を撫でながら唇を尖らせる。その様子は拗ねた幼子のようだ。何だかんだと言いながら几帳面な彼のこと、放り出してきた訳ではないのだろう。戦術書の類が出版されれば欠かさず読んでいるようだし、一度は調練で試しているようだ。戦場での指揮の冴えは、長年で培われた勘と経験に加え、日々の努力にも支えられたものなのだろう。
 おいで、手招くとギルベルトは犬と共にすぐ脇までやってくる。私を見つめる瞳は真っ直ぐで、まるで子供のようだと思う。狡猾である老獪であると周辺諸国に言われているのは彼ではない。そう評価されるのは『プロイセン』だ。ギルベルトとは違う。
 一個人としてのギルベルトは、まだまだ生まれたてだった。国としての使命を優先させる余り、彼は自分を蔑ろにすることが多々ある。それが祟ったのか、自己の欲求というのは余り強くないようだった。それよりも国民感情、使命感の方が先に立つのだ。ただ私がそのことを──人間と同じように喜怒哀楽を感じるのだから勿体なくはないかと──指摘してからは、少しばかり考え方が変わったらしい。フルートを教えてくれなんて自分から言ってきたりして、実にいい兆候が見受けられる。
 国事にばかり囚われていては、私もギルベルトも腐ってしまう。たまに気を抜くことくらい許されてもいいだろう。

「どうした、親父?」
「久し振りにフルートの稽古でもつけてやろうかと思ってね。この間練習しているのが聞こえたよ」

言えば、ギルベルトは顔を真っ赤にした。
あーうーと髪をくしゃくしゃ混ぜながら唸るのは、照れたり気恥ずかしかったりしている時だ。
可愛らしい、口元に自然と笑みが上る。
目敏いギルベルトにじろりと睨まれるけれど、赤面していては怖さは半減だった。
頭の上にケトルを乗せたらすぐに沸騰しそうだね。

「都合が悪いかな?」
「都合、は悪く、ない」
「それなら私の楽しみに付き合ってくれるだろう?」

 にこりと微笑みかけると、ギルベルトは渋々といった素振りで頷く。顔はまだ赤いままだ。からかってやろうかと思ったら、着替えてフルート持ってくる!と上手く逃げられてしまった。声が半分裏返っていたのは本人も気付いているだろう。
 少しずつ自己の楽しみを見付け始めた雛鳥というのは実に微笑ましい。フルートの練習が終わったら庭に出てお茶にでもしようかと、私は犬を撫でながら考える。あの様子だとそう早くは戻ってこないから、それをネタにもう少し苛めてやることも出来るかな。
 ギルベルトは自分自身の色々な感情をもっと知って、もっと羽を伸ばすべきだ。だから私の可愛い意地悪は正当化される。ということになっている。
 お前もそう思うだろう?
 問うてみると、犬は小首を傾げた後に元気よく一鳴きした。






自由を知らない黒鷲
(お前はもっと自由に泣いて笑っていいのだよ)






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