「お帰り、兄さん」
「ん…」
リビングのドアを開けたギルベルトにルートヴィッヒは声を掛けた。気のない返事が返ってくる。いつものことだ。
土曜の午前9時──ギルベルトがこの曜日のこの時間に帰ってくるのは珍しいことではなかった。またフランシスかアントーニョの家に泊まっていたのだろう。彼はリビングテーブルの脇に鞄を放り出して、ぼすんとソファに倒れ込む。どうせまた夜通しに近い形で酒を飲んでいたに違いない。元々緩くしか締めていない制服のネクタイを抜く音がした。
ルートヴィッヒは飲んでいた食後のコーヒーをテーブルに置き、ちらりとギルベルトへ視線を向ける。ダイニングの座席からはリビングにいる彼の様子がよく見えた。くぁ、といかにも眠そうにギルベルトが大きな欠伸をする。下手をするとほとんど寝ていないのだろう。ギルベルトの辞書に節度という文字はないのだ。同じく貞淑という文字も。
学園の中でも札付きの不良生徒であると目されているギルベルトは、そんな性状であるが故に噂話に事欠かない。他校の生徒と乱闘騒ぎを起こしただの、バイクを無免許ノーヘルで二人乗りしただの、校内で悪友と堂々と酒を飲んでいただの、何股だかの相手同士が出会ってしまって大喧嘩になっただの。挙げ連ねれば切りがない。しかもほとんどが本当の話であるから手に負えない。
特に男女関係の噂は相手がころころと入れ替わり過ぎて、現状を把握出来ているのは悪友であるフランシスとアントーニョくらいのものだろう、と誰もが思っている。そんな悪友二人もきっちりギルベルトの「男女関係」の中に入っているのはごく一部の近しい人間しか知らないことだ。
ルートヴィッヒは小さく溜め息を吐いた。無駄であるとは知りつつも、苦言を呈さない訳にはいかない。ギルベルトの素行を注意出来るのは彼の弟であり唯一の家族である、自分しかいないのだから。
ルートヴィッヒは飲み掛けのコーヒーをそのままに立ち上がった。膝を突き合わせて話す為にギルベルトの側に寄る。
──と、はだけられた胸元に散る痕が目に入った。着衣もお座なりに整えられているだけで、何があったのかを推測することは容易だった。ルートヴィッヒは不愉快そうに眉を寄せる。別にそういう行為をするな、と言っている訳ではないのだ。ただ、家の中にまでその気配を持ち込んで欲しくはなかった。
自分の上に掛かる人影に気付いたか、ギルベルトが眠気にとろんとした目を瞬かせる。見上げてくる紅い瞳、その端の粘膜が赤くなっている。情事の、名残。
「ルッツ?」
弟の名を呼ぶ声は、啼き疲れたかのように、掠れていた。何か続けようとしたらしいギルベルトの声は、しかし続かない。ひゅ、と息を飲む小さな呼吸音が聞こえた。
抑え切れない感情に顔を歪めたルートヴィッヒが、彼にはどう見えていただろう。
ずっと昔からギルベルトが好きだった。家族への親愛だったものが、いつの間にか慕情に変わっていった。彼は優しくも厳しい兄。なれど、否だからこそ、愛しく思う。ルートヴィッヒの中には兄としての彼を慕う気持ちと、一人の人間として彼を恋う気持ちとが共存している。そして長年それを内包していた心には、僅かだが明確な歪みが生じていた。自制の鎖を切ってしまうのは、容易い。
「兄さん」
「ル、……っ?!」
名を呼ぶ声を遮るようにして、ルートヴィッヒはソファに座るギルベルトに伸し掛かる。
抵抗されて傷付けたくなくて、ふと目に付いた彼のネクタイで腕を拘束した。ぎちりと食い込む布の感覚にギルベルトが息を詰める。見下ろした瞳は動揺と得体の知れない恐怖に揺れていた。あぁ、ずっとその顔が見たかった。欲望が声を上げる度に理性と倫理感で押さえ付けてきた。
ギルベルトは兄だ。優しくも厳しい、兄だ。
弟である自分に親愛を注いでくれる彼との関係を壊したくなかった。出来ることなら壊してしまいたくなかった。けれどもう、限界だった。
瓦解していく日常
(硝子細工のそれを割ったのは紛れもなく、)