どこか遠くを見ている瞳はいつになく無防備。細い首は今にも折れそうな程華奢に見える。あぁ、まだ上までボタンを閉めている。もうとっくにあの時つけた痕は消えた筈なのに。
向かいに座っているギルベルトを眺めながら、フランシスはつらつらとそんなことを思った。
授業後の教室。夕日の差し込むそこで、自分の席に座ったまま動こうとしないギルベルトを見つめ始めてもう30分程になる。フランシスは椅子に逆向きに座った姿勢で、背凭れに腕を乗せていた。
待ち合わせまでどこで時間を潰そうかと思っていたのだが、ギルベルトを見付けたので一緒にいることにしたのだ。だが彼は目線を合わせようとしない。そもそも余り動きもしなくて、フランシスがいることに気付いているかも怪しい。彼がすることといったら無意識的な呼吸と瞬き、たまに酷く辛そうな顔を見せるくらいだ。
「ギル?」
彼が何かしら人間らしい反応をするのを待ち兼ねて、フランシスはひらひらとギルベルトの目の前で手を振った。のたり、と虚空を見つめていた瞳がこちらを向く。目が合った途端、フランシスは鳥肌が立つのを感じた。じっとりと濡れた紅い瞳。それは何の感情も映していないのに、今までに見た何よりも扇情的だった。薄く開かれたギルベルトの唇が、名前を、紡ぐ。
「………フランシス」
どこか浮き世離れしたようなふわふわとした声。けれどそれは同時に、どうしようもなく欲を掻き立てた。ギルベルトの顔近くに伸びている手が迷いなく動いて、彼の頤を捉える。びくん、と大袈裟にギルベルトの体が跳ねた。フランシスは優しく誘導しながら、自分も顔を寄せていく。薄く開かれたままの唇が微かに震えている。けれどギルベルトは抵抗しない。
こういったことを校内でしようとすると、今までなら必ず手痛い方法で撃退されていたのに。互いの顔が近付く。ギルベルトが泣きそうな顔で眉を寄せる。あぁ駄目だ、このまま目茶苦茶にしてやりたい。そう思いながら唇は重なり──合わなかった。
静寂を切り裂いて携帯の着信メロディが鳴り響く。弾かれたように反応したギルベルトが、胸ポケットから携帯を取り出した。少しだけ感情を取り戻した瞳が暫く画面を見つめて揺れる。何かに耐えるように噛まれる唇。
ガタン、と音を立ててギルベルトは立ち上がった。鞄も持たずにふらふらと頼りない足取りで教室を出ていく。突然の謎の行動にフランシスは首を捻った。今の着信メロディ、あれは。
「ルートヴィッヒからの、だよな?」
何度も聞いた、耳慣れたメロディだ。
出会った当初に時々鳴るそれが特定の人間からの連絡だと気付いて、アントーニョと二人で問い詰めたことがあった。そうしたらギルベルトは意外にもあっさりと、弟だと教えてくれたのだ。彼が気が多いのを知る前だったから、恋人かと思ったのにそうではなくて、二人でやけに残念がったのを覚えている。
ギルベルトがルートヴィッヒからのメールであんな顔をするなんて。既に自分よりも逞しくなってしまった弟が可愛くてしょうがない風なのに。
フランシスは思考が纏まるよりも早く立ち上がり、ギルベルトの後を追い掛ける。あの調子だからまだそう遠くには行っていない筈だ。廊下に出て左右を見れば、僅かばかり向こうに見慣れた後ろ姿があった。けれど、それは今までよりも頼りなく見える。
あぁ、痩せたな、と直感的にフランシスは思った。ギルベルトはここ数週間でかなり消耗しているようだ。尾行けていけ。彼の行く先にその原因がある。そう勘が告げてくる。
友達を心配するのは悪いことじゃないよな、と心中でフランシスは呟く。そして彼は出来るだけ足音を忍ばせて、ギルベルトの後を追った。
滲み出る心の不均衡
(お前をそんな風にしたのは何なんだ?)