電話もメールも全て無反応。ギルベルトは結局帰ってこなかった。
ルートヴィッヒは朝から、実のところを言えば昨夜から、苛立ちを抑えられずにいた。それを感じ取ってフェリシアーノさえ余り構ってこない。彼は知らず眉間に寄っていた皺を揉み解す。
誰かの家に泊まったであろうギルベルトが、糅てて加えて抱かれでもしていたら、と思うと腸が煮え返る思いがした。ふざけるな、とルートヴィッヒは歯噛みする。そんなことは許さない。
「兄さん…」
口の中で呟き、ルートヴィッヒは窓の外に視線を流した。その日最後の授業が終わりに近付いている今、空は美しい茜色に色付いている。その赤がギルベルトの瞳の色を連想させた。
教師の声がどんどん遠ざかっていき、ルートヴィッヒの思考は今日は一度も姿を見ていない兄に囚われる。登校しているのならどこかで擦れ違うなり見掛けるなりする筈だ。幾ら広大な敷地を学園が持つとはいえ、全く接触しないなどということは不可能である。
それにギルベルトは大抵フランシスとアントーニョとつるんでいる。三人が揃うと少なからず人目を引く一行になるから、見過ごす筈もない。ここまで出会わないともなると、やはり今日は登校していないのだろうか。一体どこで何をしているのやら。事情を打ち明けて頼れる人間などいないだろうに。
ルートヴィッヒは小さく溜め息を吐く。無性に苛々する。心の中にヘドロのような重苦しい感情が蟠っていた。
と、ルートヴィッヒの思考を切り裂くかのように、無機質な電子音が授業の終わりを告げる。
教師が教材を纏めて出ていくと、教室内は俄に騒がしさに包まれる。いつも通りの様子だが、それさえもが今日はルートヴィッヒを苛立たせる要因になった。荷物を鞄に放り込み、ルートヴィッヒは席を立つ。
「ルート…?」
不安げなフェリシアーノの声は確かに届いていたが、ルートヴィッヒは振り返ることをしなかった。
玄関を開けると、淡い期待に反してそこは朝見たままの様子だった。
ギルベルトは帰っていない。立ち寄った形跡さえ、見受けられない。予想通りだ。だからこそ、少しでも期待してしまった自分が恨めしい。余計な期待などしなければ、余計な落胆もしないというのに。
それからルートヴィッヒは努めていつも通りに振る舞うようにして時間が過ぎるのを待った。ギルベルトが帰ってきたのは、今日も帰らないのではないかと思い始めた矢先のことだ。極めて静かに開閉された扉の音がルートヴィッヒにそのとこを知らせた。それを聞き取れたのは偏に、無意識のうちに意識をそちらに向けていたからだろう。この家の鍵はを持っているのは自分とギルベルトだけだ。となれば、こっそりと家に入ってきたのはギルベルト以外には考えられない。
ルートヴィッヒは深く身を沈めていたソファから腰を上げる。そろそろと廊下を歩く足音を聞きながらリビングの扉に向かう。無造作にそこを開けると、丁度ギルベルトが扉の前を通り過ぎるところだった。ルートヴィッヒを確認すると彼の肩はびくりと跳ねる。
「お帰り、兄さん」
穏やかにそう言ったルートヴィッヒに対して、ギルベルトはジリジリと後退った。そう広くない廊下ではすぐに行き止まりがくる。ギルベルトは1メートルあるかないかの距離をルートヴィッヒとの間に置いて、背を壁につけた。それ以上はどう足掻こうと下がれはしない。こくりと喉が鳴らされる。
ルートヴィッヒは緊張した面持ちのギルベルトを見つめた。その姿に変わったところは見受けられない。ように見えた。しかし。
見上げてくる瞳が、その目元が、うっすらと赤くなっている。まるで泣き腫らしたかのように。何故、それをわざわざ問おうとは思えなかった。
ルートヴィッヒは自分の中で何かが切れる音を、どこか他人事のように聞いていた。
侵蝕する狂気
(それは貴方に猛悪な牙を剥く獣)