「ここのところずっと機嫌が宜しいですね、ルートヴィッヒさんは」

 何かいいことがあったんですか。
 そう尋ねてきた菊に、ルートヴィッヒは視線を向けた。昼時の教室で、フェリシアーノを含めた3人はいつものように昼ご飯を食べている真っ最中である。それぞれ自ら腕を振るった弁当をつついている。内容が全くと言っていい程に違うのは、料理した者の個性なのだろう。
 美術の類に一番才能を発揮するだけあって、中でもフェリシアーノのものは見た目から美しかった。常からの動きが激しいせいで、盛り付けがよく崩れてしまっているのが非常に勿体ない。
 口の中の食材を飲み下してから、ルートヴィッヒはいや、と口を開いた。

「特に何かあった訳ではないが」
「でも確かに何か嬉しそうだよー?」

 フェリシアーノが菊の言葉に同調して、好奇心旺盛な目を向けてくる。期待するように見つめられても何もないものはないのだから、ルートヴィッヒは苦笑を零すしかない。
 実のところ、いいことかは分からないが機嫌がよくなるようなことはあった。しかしそのことを二人に言ってしまう訳にはいかないのだ。
 兄さん。
 ルートヴィッヒは口の中でそっと呟く。あの時、自分を見上げてきた瞳は、何とも言えない感情に彩られていた。鼓膜を叩いた悲鳴を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。最初からああすればよかったのかもしれない。そうしたら些細なことで苛立つこともなかったろう。過ぎたことを今更どうこう言ってもしょうがないが。今、彼は自分の手中に収まっている。それでよしとしよう。
 ルートヴィッヒはうっそりと唇に笑みを乗せる。それに含有されたものに気が付いたのだろうか、菊は穏やかな笑顔を作る。

「私の勘違いかもしれませんね」
「えー、そんなことないよ。ルート機嫌いいよー?」

 ねー、と同意を求めながら、先程までパスタを巻いていたフォークがルートヴィッヒの弁当のヴルストに伸ばされる。ルートヴィッヒはすかさずその手をはたき落とした。
 ヴェッと短く声を上げ、目的のものを得ることが出来なかったフェリシアーノが唇を尖らせた。目尻には涙さえ溜まっているように見える。余程食べたかったらしい。

「せめて断りを入れろ、お前は」

 ルートヴィッヒは溜め息混じりにそう言ってやる。
 捨て犬の如き哀愁を漂わせていたフェリシアーノは表情をパッと明るくし、ルートのヴルストが欲しいであります!と元気に宣言した。
 と、フェリシアーノの隣で菊がお茶を吹き出しかけ、逆に気管に入れてしまってゲホゲホ噎せる。菊がそんな失敗をするのは非常に珍しいことである。二人は彼に心配げな視線を向ける。

「ヴェー。菊大丈夫ー?」
「大丈夫です。大丈夫ですから咥えたままこっちを向かないで下さいっ」

 慌てる菊にフェリシアーノはクエスチョンマークを頭に浮かべる。その口はルートヴィッヒからもらったヴルストを咥えたままだ。先程の発言といい、菊には些か刺激が強いらしい。
 ルートヴィッヒはいつもの菊の反応であると判断し、さり気なく思考を逸らす。今頃どうしているだろうか、学園にはいない兄のことを思う。最早、彼が自分から逃げることは不可能だ。それをルートヴィッヒは確信している。
 けれど時折、どうしようもなく不安になる時がある。もしもまた彼が自分から離れていくようなことがあったら。正直なところ、冷静でいる自信はない。十中八九込み上げる衝動を押さえられないだろう。その行為はルートヴィッヒの中で正当化される。
 しかし一方で、極めて冷静な己は踏み止どまるように忠告してくる。寧ろ今現在の状況さえ、早く正常に戻されるべきであるのだと。その声をルートヴィッヒは静かに殺していく。止めたところで以前のような関係には戻れないと、痛い程に分かっていた。
 きっかけを作ったのはギルベルトだ。決断を下したのは、他ならない自分自身である。後悔はない。あるのはほんの僅かな──罪悪感。その刺がジワリジワリと傷を付けていく。少しずつ、それでも確実に傷口は広がり続ける。虫に食われた果実が、そこから腐り落ちていくかのように。

「兄さん…俺たちはどこで間違えた?」

 ルートヴィッヒが漏らしたごくごく小さな呟きは、誰にも聞き届けられずに消えていった。






背徳の棘
(刺し貫かれるのが心でなく心臓であったなら)