「なぁ、ギ………ル?」

 午後の授業の開始を告げる鐘に促されて、生徒たちはそれぞれの教室に向かっている。
 それに従いながら3人で歩いていた筈なのに、フランシスが振り向いた先にギルベルトはいなかった。頭から血の気が引くのが分かる。アントーニョが固まったフランシスに怪訝な顔をして、後ろを振り返った。
 忽然。正にその表現がぴったりだ。沢山の生徒が行き違う廊下だから、流石に横に並んでいなかったのが裏目に出た。最近頓に痩せたとはいえ、まさか人の波に押されて切り離された訳ではあるまい。

「ちょ、これ不味いんちゃうの?」

 フランシスとアントーニョの頭にほぼ同時に浮かんだのはルートヴィッヒだ。同じ学園内にいるのだから、偶然出会ってしまうことは当然有り得る。だからどちらかが極力側にいるようにしたのに。そうすれば鉢合わせしても、多少は彼の脅威を退けることが出来る。ギルベルトはあからさまに迷惑そうな表情をしたが、それでも追い払おうとはしなかった。成り行きでアントーニョの家に泊まってしまったから、本人も危惧していたのだろう。
 あぁ、それなのに。フランシスは踵を返し、来た道を戻り始める。アントーニョもそれに続く。とっくに授業は始まってしまったろうが、そんなことは気にならなかった。そもそも出席していても余り真面目に受けてはいない。
 静寂に包まれた廊下を足早に進む。今まで感じたこともなかったが、この時ばかりは学園の広さに苛立ちを感じた。人気のないところが多過ぎてどこから探せばいいものか検討がつかない。闇雲に歩き回っても時間を浪費するだけだ。どうしたものか。
 フランシスはアントーニョに視線を遣ろうとし、遠くで誰かが教室から出てくる姿を見た。早退するか医務室にでも行くのだろうか。そう思ったのはほんの一瞬だった。ゆったりとこちらに向かって歩いてくる長身に見覚えがある。
 ──ルートヴィッヒだ。
 フランシスは自分の顔付きが反射的に険しくなるのを感じる。ルートヴィッヒは慣れた手付きでネクタイを締め直していた。何故かなんて、そんなことは分かり切っている。あの時も彼は自分のネクタイを抜いていた。
 最早半ば走っている二人とルートヴィッヒの距離が詰まる。擦れ違う。その瞬間、微かな忍び笑いが聞こえた気がした。フランシスは小さく舌打ちをする。笑い事か。ルートヴィッヒの態度に苛立ちながらも、彼が出てきた教室に急ぐ。気が急いてしょうがない。辿り着いた先で、フランシスは僅かに開いている扉を引き開けた。

「、ギル」

 瞬間、目に飛び込んできたのは壁際に座り込んで啜り泣いているギルベルトの姿。無体を強いられたのだと一目で分かる様にフランシスは眉を寄せる。首と腕に浮く生々しい程に新しい痣が痛ましい。
 アントーニョが壁を殴り付けた。びく、とギルベルトが体を跳ねさせる。のろのろと動いた瞳が、入口近くに立つフランシスとアントーニョを捉える。ぼろりと一際大きな滴がそこから零れ落ちた。
 もう見ていられたもんじゃない。フランシスは身繕いをしてやろうとギルベルトの側に寄って膝を折る。彼は途端にきゅう、とシャツに縋ってきた。見上げてくる涙を湛えた紅。

「たすけて…」

 嗚咽混じりの掠れ声がそう呟いた。フランシスは震える肩を優しく抱いてやる。それはやけに薄くて頼りなく感じられた。
 こんなにか細かったっけ、とフランシスは心中で呟く。確かに逞しいとは言えないが、それでももっとしっかりしていた筈だ。もっと早く助けてやればよかった。あの時、狂った関係に立ち入ることを躊躇うべきではなかったのだ。そうしたらギルベルトはこんなにも弱らなかっただろうに。
 フランシスは自分の不甲斐なさに、唇を噛んだ。






遅過ぎる救済
(事態は坂を転がる石、手は危うくそれを掴めたけれど)