ギルベルトが消えた。それは失踪でも何でもなく、彼が悪友に保護されたからだと分かっている。けれど、ルートヴィッヒにはそれが確かに喪失のように感じられた。もう二度とこの腕の中に戻ってくることはないのだろう。
当たり前だ。身勝手な想いで縛って、傷付けた。あの時、弟として彼に接していたなら、変わらぬ日常が今ここにあっただろうか。ルートヴィッヒは首を振る。過ぎたことだ。戻れない過去のことを今更考えてどうする。無益に時間が過ぎていくだけで、何ら利を生まない。そうして幾度も思考をギルベルトから離れさせようとするのだが、一向に成果は得られなかった。ふとした時に頭に浮かぶのはギルベルトのことで、夜も満足に寝られない。鬱々とした気持ちは徒に積み重なるばかりだ。寝不足が慢性的になってきている。
取っていたペンを投げ出して、ルートヴィッヒは瞑目する。ギルベルトが帰らなくなってもう一週間が経つ。疲労は限界に達しているから、休養しなければならないことは分かっていた。だがそれが出来れば苦労はしない。こうして重い頭を抱えることもないだろう。
「兄さん…」
廊下で擦れ違った時に向けられたフランシスの目が脳裏にちらつく。その時思わず漏らした自嘲の笑いを、ルートヴィッヒはまた漏らした。いつかは破綻するのだと分かっていた。だからフランシスのあの義憤に満ちた目を見た時に確信した。もう終わりなのだ、と。
歪みきった関係が正常な世界の中で長続きする筈もない。いずれは来るものが今来ただけだと思った。その諦念は、今まで感じた何よりも苦いものだった。どこで間違えてしまったのだろう、とルートヴィッヒは自問する。胸中の想いを隠していられなくなった時か、ギルベルトを求めることを止められなくなった時か。それとも、兄を兄と見られなくなった、時か。あぁもう分からない。
せめて兄弟でなかったなら、この身に流れる血が彼と同じものでなかったなら。自分はこの想いを閉じ込めて歪めることもなく、ギルベルトに伝えられていたのだろうか。それともそれでも尚、彼を傷付けることしか出来なかったのだろうか。
「ギルベルト…」
触れられなくともいい。もう一度ど彼の姿が、笑顔が見たかった。けれどそうしてしまえば、また抑え切れない感情が彼を傷付けてしまうだろう。だからこれはただの夢想だ。もう二度と自分の腕にギルベルトを抱くことはない。あっては、ならない。弟ではない、彼の特別になりたかった。その願いはもう叶わない。ほんの僅かばかりの可能性は自分で壊した。
ルートヴィッヒはゆるりと目を開ける。ふと机の片隅に置いてある箱が目に付いた。無駄になってしまったな、と思う。ギルベルトにそれを渡すことも最早出来ない。こんなことなら何か理由を付けて、もっと早くに渡してしまうのだった。
「馬鹿だな、俺は」
ルートヴィッヒは呟く。
満足しておけばよかったのだ。高望みなどせず、彼の弟という不動の位置に。けれど兄弟という関係さえ崩壊してしまった今は──せめて胸の内で愛すことを許して欲しい。同じように愛してくれとは、決して言わないから。
だから、だからどうか。
望みなき祈念
(貴方を想ったまま、いっそ泡と消えようか)