目を覚ますと、そこは日常の直中だった。目に映るものが一体なんなのか理解するのに、かなりの時間が掛かる。
 白く汚れた黒板。笑いさざめく生徒の群。投げ出された腕は、自分のものだ。
 かなり熟睡してしまっていたらしい。ギルベルトは伸びをして、のんびりと机に突っ伏していた体を起こす。欠伸をし──不意に背筋を這い上がった悪寒に身震いする。
 何か、酷く悪い夢を見ていた気がする。じっとりと掻いている汗は決して気温のせいだけではない、そう思ったのは直感だ。けれど内容は思い出せない。
 夢などそんなものか、と気にはなるもののギルベルトはそれ以上考えないことにする。じっとして黙り込んであれこれ思考するのは、どちらかと言えば苦手な方だ。

「お早うさん。よぉ寝とったなぁ」
「幾らなんでも寝過ぎでしょ、ギルちゃん」

 何度も声掛けたのに起きないんだから、悪友2人から声を掛けられ、ギルベルトの意識は完全にそちらに向く。人は残っているものの、既に時間は授業後になっているようだ。フランシスもアントーニョも帰り支度を済ませている。
 帰る方向はそれぞれに違うが、暇な時には制服のままで遊びに繰り出すことが多い。それ故に、特に何も言っていなくても2人がそこにいるのに何の違和感も感じなかった。否、実のところ違和感は感じた。
無防備に爆睡していたのに、どうして何の悪戯もされていないのだろう。この2人なら嬉々としてやりそうなものを。というか、散々今までやってきた癖に。

「あー悪ぃ悪ぃ。で、今からどうすんだよ」
「取り敢えず待たせたお詫びとして何か奢ってよ」

 げっとギルベルトは如何にも嫌そうな声を出したが、フランシスに発言を撤回する気はないらしい。により、してやったりという顔で笑われて蟀谷が引き攣る。
 そこで更に小憎ったらしいのが、アントーニョの連携プレーだ。彼はこういう時、持ち前の空気の読めなさをどこかにやってしまう。普段のあれは作りか、と思う程にあっさりと。

「せやったら俺、駅前のアイスがええなー」
「あぁ、あそこ美味しいんだよね。高いけど」
「っ、テメェらなぁ…」

 遠慮なくたかるんじゃねぇよ。
 ギルベルトはそう言おうとするが、その声は途中で途切れた。示し合わせたかのように2人が両脇からギルベルトを拘束したからだ。逃がしてくれる気は小指の甘皮程もないらしい。
 盛大に溜め息を吐いたギルベルトは、次の瞬間ぐいと強い力で後ろに引っ張られた。諦めたことを察してさして力を入れていなかったフランシスとアントーニョの腕から、体は易々と解放される。

「何をしてるんだ、兄さん」
「、ルッツ」

 救世主の正体はルートヴィッヒだった。感謝の眼差しで見つめるその顔に浮かぶのは呆れだが、ギルベルトには全く気にならない。これで何か理由をつけて弟と家に直帰すれば、少なくとも今日は奢りだの何だのということにならない筈だ。
 と、脇からフランシスとアントーニョが猛烈な抗議を始める。相手は当然──ルートヴィッヒである。自分たちの正当性を主張する2人の話を暫く黙って聞いていた彼は、心得たようにくすりと小さく笑いを漏らす。ギルベルトとしては嫌な予感を禁じ得ない。

「ついでに俺にも奢ってもらおうか」
「ちょ、お前ふざけんなぁああ! 助けにきたんじゃねぇのかよ?!」
「違う。それに兄さんが悪いのは明白だろう」

 にっこりと諭すように言われ、ギルベルトは青褪めた顔で首を振る。勿論横に、だ。学生の懐を舐めないで欲しい。
 特にギルベルトは堅実な弟と違って節約などする気がないから、正直なところ財布の中身を直視したくない状況だ。そんな自分に3人分のアイスを奢る余裕がどこにあるというのだ。否、どこにもない。
 つい反語まで使って否定するが、ルートヴィッヒまでもが逃がす気がないとすると、もう逃亡を考えるだけ無駄である。あわよくば逃げられたとしても、いつもの逃亡先には必ず3人のうちの誰かがいる。逃げる術も場も奪われては、観念するしかないだろう。

「たまにはいいことするじゃない、ルートヴィッヒ」
「ほら、行くでギルちゃん」

 アントーニョに促され、半ば引き摺られる形でギルベルトは連行される。
 奢る云々はさて置き、皆でわいわいするのは楽しいからいいか。ギルベルトがそう思って笑みを漏らした矢先。
 ばったり会ったフェリシアーノと菊も同行することになり、彼は悲鳴を上げる羽目になった。史上最悪のポケットマネーの危機に目の前が真っ暗になる。輪郭がぼやけていく。
 ──違う。
 これは、違う。遠のいていく世界をどこか他人事のように眺めて、ギルベルトは独り言ちる。これは意識を無理矢理連れ戻される感覚だ。
 あぁ、目覚めてしまう。まだ幸せな日々の中にいたいのに。
 嫌だ、嫌だ──

「お早う、兄さん」

 目を開けた途端飛び込んできた、自分に向かって浮かべられた笑み。それにギルベルトは眩暈以外のものを感じることが出来なかった。






懐かしき幸せな日々
(もうどこにもない、取り戻せない)