「ほら、ちゃんと食べないか」

 体力が落ちるぞ、などと言われるが食欲など出る筈がない。
 ギルベルトは並べられた朝食をぼんやりと見つめていた。いつも通りの朝だ。
 けれどここ暫くそこに差異が差し込まれている。ルートヴィッヒの制服姿に相対するような、己の姿。普段ならばギルベルトとて同じものを身に着けていた。真っ白なシャツにネクタイ、濃い色のスラックス──学園の制服だ。それを纏わなくなってから、もうどれ程になるだろうか。
 常に身動きを封じられている訳ではない。寧ろ野放しと言ってもいいまでにギルベルトは自由だ。この家の中でだけ、だが。軟禁という表現が一番近いだろうか。
 それでも、逃げようと思えばいくらでもそう出来る環境だ。ルートヴィッヒが学校に行ってしまえば、完全に監視の目は離れる。家を離れる時、彼がギルベルトを拘束していったことはない。現に逃亡の可能性は何度もギルベルトの前に現われた。
 けれど、ギルベルトは逃げなかった。否、逃げられなかったと言った方がいいかもしれない。絶対に見付け出される、連れ戻される。そうしたら。
 そんな脅迫観念めいたものが、ギルベルトを家の中に押し止どめた。仮に逃げ出して助けを求めたとしても、何と言えばいいのだろう。実の弟に監禁されて犯されていた──そんなことを、己の口から説明出来る訳がない。それに誰にも信じられないに違いない。信用度は考えるまでもなく、ルートヴィッヒの方が上だ。

「兄さん、」

 溜め息と共に声を掛けられて、ギルベルトははっと我に返った。次の瞬間にルートヴィッヒの手が迫ってくる。
 自分に近寄るそれが害を為すものにしか見えなくて、けれど拒絶することが出来ないギルベルトはただ身を硬くした。指先が頤に辿り着き、俯きがちだった顔を上げさせられる。
 押し開いた口に突っ込まれたのは、スプーンに掬われたスープだった。冷め始めているそれを、吐き出す訳にもいかなくて飲み込む。こくりと喉が小さく鳴ると、ルートヴィッヒが深く息を吐いた。溜め息とは違うもののように感じられたのは、気のせいなのだろう。
 ルートヴィッヒがちらりと時計に目をやる。つられて目を向けると、長針が常の出発時刻を刺そうとしている。余裕を持たせて定めた時間であるから過ぎても遅刻することはないが、やはりルートヴィッヒは日頃の習慣に従うらしい。
 妙に後ろ髪を引かれているように見えたのは、これもまた気のせいなのだろう。きちんと食べろよ、幼子に言い聞かせるように言われ、ギルベルトは機械的に頷いた。



 ざぁ、ざぁ、ざぁ。
 頭上から降り注ぐ温い湯に打たれながら、ギルベルトは上がりそうになる声を必死で抑えていた。片手を浴室の壁について、もう片方の指をまだ熱を孕んでいるように感じられる箇所に食ませる格好。奥まで入れた指を曲げて中の残滓を掻き出していく。
 それは徒に弱いところを刺激して、膝を笑わせる。

「っ……ふ…ぅ…、ぁ」

 どろり、内股を伝う感触に身震いする。ギルベルトは深く息を吐いて、ゆっくりと指の動きを繰り返した。少しずつ少しずつ、それでも確実に中に残されたものは体外へ出ていく。奥深くに残されたもの。ルートヴィッヒが、そこを確かに凌辱していた、証。そう思っただけで吐き気が込み上げてくる。
 ギルベルトはすぐさま思考を他へと逸らした。考えるな──自分に言い聞かせる。あれは夢だ。時間さえ経てばいずれは覚める、夢。だから考えなくていい。ただ時間が過ぎるのを待てばいい。考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな。

「ひっ……ぁ、ん…」

 思考を逸らす余り注意が疎かになり、僅かに内壁に爪を立ててしまう。ぞくりと背筋を撓らせて、ギルベルトはそんな自分の反応に嫌悪を覚えた。
 これは躾けられた反応だ。誰に、なんて分かりきっている。以前だったらこんな反応はしなかった。こんな思いも、しなかった。
 何がいけなかったのだろう、どこで間違えてしまったのだろう。嫌だ嫌だ、もうこんなのは。

「ルッツ…」

 呟く声は掠れて、弱々しく浴室に反響する。早く終わらせてしまおう。ギルベルトは少しだけ指の動きを早める。
 まだ食卓に並べられている冷えきった朝食のことがちらりと頭を過ぎったが、食べる気には到底ならない。
 それよりも早く、逃げ込みたい。幸せな夢はいつでも優しく穏やかに、自分を迎えてくれるから。ゆるりと瞼を伏せて、ギルベルトは熱の籠った息を吐き出した。






飼い殺しの虜囚
(じわじわ奪われていく、思考も気力も何もかも)