はぁ、口を吐いた溜め息は静寂に満ちた空気に溶けて消えていく。
 ルートヴィッヒは物憂い視線を文字が羅列されていく黒板に向けていた。ノートを取ってはいるが、内容はほとんど頭に入ってこない。
 頭を支配しているのはギルベルトのことだ。ここのところずっと今朝のような調子で、食欲が全くないに等しい。大人しくしていてくれるのは喜ばしいのだが、あれでは流石に身を案じずにはいられない。
 元々肉付きがいい方ではないのだ、ギルベルトは。それが最近、食欲不振にも程がある状態のせいで更に顕著になってきている。否、ギルベルトが痩せ始めたのはもう少し前からだった気もした。あれは──そう、彼に関係を強い始めてから、だろうか。
 気丈に普段通りに振る舞っていた、けれど異常な関係は確実にギルベルトの精神を蝕んだのだ。最初はぼぅっとしていることが多くなったくらいのものだった。それが今では、夢への逃避に変わっている。逃げる、目を背ける、受け入れたくない現実の世界から。それは彼の心を安らげるだろう。しかし同時に、酷く傷付けもする。夢の中への逃避など一時凌ぎの策に過ぎない。いつか絶対に、夢は覚める。
 目覚めた時がより辛くなるだけだろうに、ギルベルトはそれを止めない。逃げている。彼は逃げている。残酷でしかない現実から、自分を傷付ける全てから。
 無意味だ、とルートヴィッヒは心中で独り言ちる。いくら目を逸らしたところで、事実は変わらずにそこにある。消えてなくなりなど、しないのだ。

「……ト、…ート、ルートってばっ」

 つらつらと流れていく思考を相変わらずの声が遮った。
 ぶれていた焦点を合わせれば、机の脇にしゃがみ込んだフェリシアーノが自分の顔を見つめている。彼は愛くるしい瞳をきょときょとと瞬かせ、小首を傾げる。疑いを知らないかのような瞳に全てを見透かされている気がして、ルートヴィッヒは微かな気不味さを覚えた。空気を読む能力が極度に低いフェリシアーノに限って、そんなことはないとは思うのだが。

「授業終わったよー? 最近急いで帰るからいいのかな、って」
「…考え事をしていてた。心配させたなら済まない」

 簡素に答えて、ルートヴィッヒは勉強用具を纏める。元々よく寄り道をする方ではないが、この頃は特に直帰するようになっていた。
 あんな状態のギルベルトを1人残していると思うと不安でしょうがなかったのだ。帰ったらいなくなっているのでは、という恐怖もあった。逃げようと思えばそう出来るようにしているのは、他の誰でもない自分自身だ。けれどそう、それは信じているから。ギルベルトは逃げないと、自分から逃げることなど出来ないと。
 それなのに同じ頭で、恐れているのだ。もし彼が逃げ出したら、いなくなってしまったら、と。
 二律背信極まりない考えに眩暈を覚える。これはもしかしたら願望なのかもしれない。己の前から逃げ出して欲しい、という。

「ヴェー、気を付けて帰ってねー」
「あぁ、またな」

 根気よく何かを続けることが苦手なフェリシアーノも、部活だけは例外らしかった。部室に直行するようで、昇降口とは違う方向へ足を向けている。笑顔で手を振られ、ルートヴィッヒは軽く手を上げてそれに答える。
 いつも通りの帰り際の光景だ。珍しくも何ともない。だが、僅かに違和感を覚える。
 何なのだろう──考えて、ルートヴィッヒはすぐにそれに思い至った。菊がいない、のだ。余程のことがない限り、授業後に一度は3人共が揃うのだが。随分惚けていたようだから、先に帰ったのだろう。推測としては妥当な結論に納得し、ルートヴィッヒは階段を下りていく。
 と、階下の廊下に菊の姿が見えた。まだ帰っていなかったのか、と思ったのは一瞬。ルートヴィッヒは我知らず眉を顰める。菊の隣にはアーサーと、フランシスがいた。ギルベルトとの関係で余り好ましく思っていない2人だ。

「…、ルートヴィッヒさん」

 菊が気付いて、軽く挨拶を交わしてから小走りに寄ってくる。ルートヴィッヒは何気ない態度で彼を迎えた。他愛ない話をしながら一緒に階段を下りる。
 しかしルートヴィッヒの意識は菊ではなく、完全に背後の2人に向かう。鋭い視線、睨むようなそれは主にフランシスから自分に注がれていた。アーサーの方は疑り深い精査の眼差しだ。お前の行動は隈なく監視しているぞ、とでもいうかのような。

「何か悩み事があるなら、相談して下さいね。話せば楽になることもありますから」

 そんな菊の言葉が、普段なら素直に受け取れたであろうに、探りを入れられているように聞こえてしまう。
 全く、嫌な2人を目にしてしまった。内心で嘆息しながら、ルートヴィッヒは靴を履き替える。
 外に出ると多様な部活動がそれぞれの区域で練習をしているのが目に入った。サッカー部も活動中で、そこには当然ながらフェリシアーノの姿があった。
奥にはもう引退後だろうに、アントーニョの姿が見える。嫌な人間の3人目だ。彼は幸いルートヴィッヒには気付いていないらしく、盛んにロヴィーノに話し掛けている。

「菊ー、ルートー!」

 2人に気付いたフェリシアーノがまた明日ー!と手を振ってくる。
 余りの大音声に菊とルートヴィッヒは互いに顔を見合わせた。けれどすぐにフェリシアーノらしいと破顔して、手を振り返す。
 夕日を背にした彼は、ルートヴィッヒには酷く眩しく感じられる笑みを浮かべていた。






憂いのない君への羨望
(慕情も劣情も、棄ててしまえたらどれだけいいか)