ゆっくり、ゆっくりと意識が浮上する。それは穏やかな目覚めだった。ギルベルトは薄目を開け、カーテンを通して入ってくる残光に目を瞬かせる。まだ日が残っているような時間なのか。
もそもそと体を起こし、ギルベルトは壁に掛かった時計に目を遣る。5時になる少しばかり前だ。この時期なら暮れ泥んでいてもおかしくはない。いつもは嫌々目を覚ますのだが、今日は何故かすんなりと自分の置かれた状況に戻ることが出来た。
まだルートヴィッヒが帰っていないから、だろうか。ギルベルトは彼が側にいるだけで息苦しくなるし、恐怖を感じずにはいられなかった。ルートヴィッヒは確かに自分の弟で大切な家族なのに、否だからこそ、恐ろしくて仕方がない。何を考えているのか、何がしたいのか、分からない。得体の知れないものは本能的な恐怖を呼び起こした。分からないことは、イコール、怖いのだ。戸惑いや動揺はより感情に直結する。
最近では条件付けられてきてしまったようで、ルートヴィッヒが現われると考えることを放棄してしまう。嵐の時には何もせずに過ぎ去るのを待つのが一番いい。ギルベルトにとって、今のルートヴィッヒは避けようのない天災のようなものだ。
「、ぁ…」
本当に久し振りに冴えた頭で室内を見回していると、本棚にひっそりと自分の携帯が置かれているのが目に入った。
ルートヴィッヒが眠っている間にでもそこに置いたのだろう。ギルベルトは立ち上がり、ぺたぺたとそれを手に出来るところまで歩く。フラップを開けて──画面から光は零れなかった。
やはり電池が切れているのか、とギルベルトは少しだけ残念に思う。曜日感覚が麻痺してしまっているから、生きていたら今日が何日かくらいは分かったのに。ギルベルトは暫く真っ暗な画面を見つめていたが、ふと電源ボタンを押してみようという気になった。長押しすると、携帯は余りにもあっさりと起動準備に入る。
それが余りに思いがけないことで、ギルベルトは信じられない目で待受画面を見つめた。最後に見たのと寸分違わない状態であるのが不可思議でしょうがない。
「…?!」
と、不意に着信メロディが鳴り響いた。ギルベルトは驚いて携帯を取り落としかけてしまう。
なかなか鳴りやまないそれは、電源が切られている間に届いたメールによるものだった。2桁は優にある。その8割方が、フランシスとアントーニョからだ。不在着信も何件もあった。
ずっと気に掛けてくれていたのか、と目頭が熱くなる。視界がぼやける。込み上げるものを必死で宥めて、ギルベルトは画面を見つめた。何か返事がしたい。そう思う反面、問い質されたらどうするのだと思う自分もいる。答えられない。答えられる筈がない、こんな状況は。
躊躇いから、ギルベルトの指はボタンの上を行き来する。どうしよう、どうしたら。
答えが出る前に携帯は新しい着信を告げる。それは今現在掛けられている電話だった。フランシスから──惑う心に決心をつけさせるように。
ギルベルトは震える指を受話ボタンに向ける。そして指がボタンを押そうとした、時。
「…兄さん」
「ひ、」
何の前触れもなしに現われたルートヴィッヒに、ギルベルトは携帯が手から滑り落ちるのを感じた。
それまでは正面だった思考が瞬く間にパニックを起こす。喉が勝手に悲鳴を上げる。何の気配もなかった、帰ってくる様子なんて! ぐるぐる思考が回る。見付かるなんて見付かるなんて悪いことなんかしていないだけどあぁ。ルッツルッツルートヴィッヒ、何でどうしてどうしてどうしてそんな顔を、するの。
鳴り続ける携帯を一瞥したその顔は、憂いの表情を張り付けていた。きゅうと胸の奥が痛む。ギルベルトは無意識にシャツを握り締めた。息が、苦しい。
ふっとルートヴィッヒの顔から表情が消えた。腕を取られ、ギルベルトは強引に引き寄せられる。
「や、だ…っ……痛っ!」
「黙れ。貴方の意思など知ったことじゃない」
反射的に身を捩ると、体を壁に押し付けられた。強かに後頭部をぶつけてギルベルトは苦鳴を漏らす。
ルートヴィッヒの目が自分を見据えている。爛々と輝く捕食者の目だ。ぞ、と悪寒が走りパニックに拍車が掛かる。
怖い怖い怖い怖い!
引き裂くようにシャツを開けられる。首筋に歯を立てられて鋭い痛みが走った。
一度は鳴り止んだ携帯が、また着信メロディを響かせていた。
襲うのは恐怖と正体不明の胸の疼痛
(あぁどうしてどうして、お前は一体何が、)