フランシスとルートヴィッヒの間に飛び込んだのは、ほとんど無意識に近かった。結構な物音がして驚いて廊下に顔を出したらあんな光景が目に入ったものだから、あれこれ考えている暇はなかったのだ。
 頭に上っていた血が引くと、ルートヴィッヒに対する恐怖心が少しずつ蘇ってきた。彼は決して自分から触れてこようとはしない。けれど、どうしても体が震えてしまうのだ。ギルベルトは今更ながら、精神的にも相当参っていたのだと自覚し直す。その時は混乱で頭が一杯になっていて、冷静に自己判断が出来る状況ではなかった。ただ酷く辛くて、苦しくて。
 ギュッと絞ったタオルを持って、ギルベルトはルートヴィッヒのところへ戻る。部屋に連れてきたのは自分であるし、怪我が心配で無下に追い出せなかった。ルートヴィッヒは身動ぎ一つせずにソファに座っていたが、ギルベルトの足音に僅かに視線を動かした。蒼の目と、視線が、搗ち合う。
 びく、とギルベルトは無意識に体を強張らせた。思い出してしまう。自分を見下ろした冷たい瞳を。
 大丈夫だ、とギルベルトは己に言い聞かせる。そして隣に間隔を空けて座り、そっとルートヴィッヒの頬にタオルを当てる。かなり怒っていたから、フランシスは容赦なく殴っただろう。すぐさま腫れてくるに違いない。ギルベルトは眉根を寄せた。どんな理由があったとて、弟が傷付けられるのは心地好いものではない。

「………兄さん」

 躊躇いがちにルートヴィッヒが口を開いた。10日振りに聞く声。
 ギルベルトは伏せていた目線を反射的に上げる。そこにあったのは何とも言えない感情を宿した瞳。それよりもギルベルトが目を奪われたのは、目の下の隈だ。身長差のせいで気が付かなかったが、くっきりと浮かんでいる。ルートヴィッヒがこれ程までに如実に体調不良が分かる状態になるなんて、今までになかった。
 どうして、だろう。もしかして──もしかして、離れていたから、だろうか。ルートヴィッヒも同じように悩み苦しんでいたのだろうか。

「、ぁ…?!」

 不意に動いたルートヴィッヒの腕に抱き寄せられ、ギルベルトは動揺の声を上げた。タオルが手から落ちる。鼓動が徒に早まって、ひゅ、と喉が鳴る。
 ──怖い。
 しかし脳裏に過ぎった展開はいつになっても訪れなかった。代わりに肩口に顔を埋められる。縋り付くような抱擁。
 自分の前でだけは涙を見せた幼い頃の弟を、ギルベルトは否応なく思い出した。涙を見せる時は必ず、彼はこうして顔を寄せてきた。その時ばかりは年齢相応に見える弟を優しく撫でてやったものだ。

「ルッツ?」

 だが嗚咽はない。
 ギルベルトは動悸が治まらない中、平静を努めてルートヴィッヒを呼んだ。その声は少しだけ震えていた。
 ルートヴィッヒが顔を上げる気配はない。答える気配も、かと言って離す気配もない。酸欠に喘ぐような浅い呼吸が繰り返されるばかりだ。回された腕に力が籠る。どこにも行かせない、というかのようにキツく。
 兄さん、と再びルートヴィッヒが呟きに似た声を漏らす。その声には10日前の、耳について離れない彼の声と同じ感情が、含有されていた。






そこにある感情
(嗚呼、声に含まれるそれは一体何を示しているの)