性急に求められることなど疾うに慣れたつもりだった。否、確かに体は疾うにそうされることに慣れた。
 けれど心の方はそうはいかなかったらしかった。明確な恐怖を抱いてしまったせいか、自分の殻に閉じ籠ることが、出来ない。ギルベルトは必死で目の前にいるのがルートヴィッヒであるという事象から目を背けようとする。
 違う違う違う違う違う。ルートヴィッヒではない、ルートヴィッヒの筈がない。
 それは防衛本能だ。牙を剥く彼が自分の可愛い弟だと認めてしまえば、ギリギリで保っている心の均衡が崩れてしまう。
 そんなギルベルトの行為を嘲笑うかのように、ルートヴィッヒが己の存在を刻み付けてくる。否応なく受け入れさせられるそれは、酷くギルベルトを苦しめた。

「ひ、ぁっ…や……や、ぁ、あっ…!」

 ぞわりぞわりと体を蝕む悪寒と快楽に、ギルベルトは背をのけ反らせる。それは背にしている壁に頭をぶつけるのと同義で、ギルベルトは痛みに眉を寄せた。先程強かに打った部分もずきずきと鈍い痛みを発している。それが意識を現実に繋ぎ止めているのだと分かったが、消すことなど出来よう筈もない。
 壁とルートヴィッヒに挟まれた体勢、脚を抱えられているせいで体勢はかなり不安定だ。縋れるものを探して、咄嗟に掴んだのはルートヴィッヒの肩口だった。
 ギルベルトが後悔したのは言うまでもない。そうしていれば多少の安定は得られるものの、どうしても距離が近くなってしまう。間近に聞こえる声や見える姿形は、ギルベルトに相手が誰であるのかということを残酷なまでに突き付ける。

「やだ、ゃ、あっ…ぁ、やああぁっ」

 ぼろぼろと涙が零れ落ちていく。それを舌先で掬い取るルートヴィッヒの所作は、何故か妙に優しかった。
 しかしそれを感じ取る余裕がギルベルトにはない。逃げ出したくて、けれど事実を偽る故に理由が曖昧で、どうしてと考える度に思考は凍る。それを許さないとでも言うかのように、体内の熱が凍て付いた思考を切り裂いていく。ドロドロに融解させる。考えたくないのに、認めたくなどないのに。
 容赦なく揺さぶられてギルベルトは泣きじゃくった。嫌だ嫌だ、繰り返す言葉は子供の駄々に近い。

「兄さん、」

 声が聞こえたかと思うと、ふっと足を支えていたルートヴィッヒの片腕が消失した。ギルベルトは反射的にシャツを掴む手に力を込める。
 どうしてか、はすぐに分かった。首に絡められる指。意味深な動きで首を上から下へとなぞったそれは、迷いなく気道を圧迫しにかかる。それにも最早、慣れた。
 けれど生理現象を制御することは敵わなくて、酸欠に視界が霞み始める。生存本能が知らず、ルートヴィッヒの肩口に爪を立てさせた。そんな些細な抵抗は何にもならない徒労だ。ルートヴィッヒの指に籠る力は減るどころか増加する。
 間近で、囁くような呟きが漏らされた。

「兄さん… し いる」
「、は…ぅ……、」

 キンキンと鳴り響く耳鳴りに邪魔をされて、言葉を全て聞き取ることが出来ない。それなのに自分の呼称だけははっきりと聞こえるのだから、皮肉なものだ。
 兄さん、その言葉は耳に馴染み過ぎている。そして自分をそう呼ぶのは──ただ一人しかいない、のだ。
 違う!
 脳裏に浮かびかけた姿を、ギルベルトは即座に否定した。どうしてこんな時に彼のことなど思い出すのだろう。後ろめたい気持ちでもあるのだろうか。何も悪いことなどしていないのに。約束に背いている訳でもない。
 あぁ、違う。
 そこにいるのは。自分が縋り付いているのは。
 ギルベルトはぼやけた視界で、それでも確かにその人物を捉えた。捉えて、しまった。必死で目を逸らしていたのに。
 かふ、と最期の息のような音が喉から漏れる。本当に窒息する寸前で、ルートヴィッヒが漸く指の力を緩めた。

「ル、ツ……」

 一気に流れ込んできた空気に噎せながら、ギルベルトはごくごく小さく名を紡ぐ。
 それは弟のものだ。同時に、今自分を貫いている彼の。
 外との接触を絶たれてから、夢に逃げ込むようになってから、最中に意識的に名前を呼ぶのはこれが初めてだった。
 ルートヴィッヒもそれに気付いたのだろう、驚きからかぴたりと動きが止まる。深く長く吐き出された息は何の為のものだったのか。首筋に顔を埋められて、ギルベルトはびくりと体を強張らせた。けれど思っていたようなことは何も起こらない。ただ、意味深な声音で呼ばれただけで。

「ギルベルト、」
「んっ……ぅ、っ、く…」

 ぎり、と首に回ったままだった指に力が込められる。
 ギルベルトは緩く目を閉じた。最早瞼の裏にさえ、幸せな日常は映らなかった。






忍び寄る崩壊の足音
(早くここまで辿り着いてくれればいいものを)