瞳を閉じてベッドに横たわっている姿は、まるで穏やかに眠っているようだ。
 ルートヴィッヒはそっとその頬に触れる。そこはまだ温かくて、涙でしっとりと濡れていた。
 けれどそこに新たな涙が零れることはもうない。笑みが浮かぶことも。最早ぴくりとさえ、動くことはない。

「兄さん、」

 喪失感と充足感、共存する筈がない2つの感情に乱れた心で、ルートヴィッヒは話し掛ける。答えがないのは、十二分に承知の上だ。
 まだ耳にあの声が残っている。指には確かな感触が。最後に流れた大粒の涙と彼が浮べた微かな笑みを、忘れることは決してないだろう。
 丁寧に清めたから、ギルベルトは本当にただ眠っているだけのようだ。否、それにしては自分のつけた痣や痕が痛々し過ぎるか。頬から首、胸へと指先を滑らせて、ルートヴィッヒは小さく息を吐く。

「愛しているよ、兄さん」

 結局応えてくれることはなかったな、と思う。伝えなかったのだから、応えられないのも当然だけれど。本当に、本当に心から愛していた。何よりも大切だった。
 それなのにどこかで、間違えた。愛しくて、愛し過ぎて、歯止めが利かなくなってしまった。道を踏み外して後戻りすることなど考えなくて、真っ当な場所に辿り着ける筈がない。だからこれはきっと、くるべくしてきた未来なのだ。
 ルートヴィッヒが片膝をつくと、重さに抗議するかのようにギシリとベッドが軋んだ。それに構わずもう片方の膝も乗せ、膝立ちでギルベルトを見下ろす格好になる。
 と、静寂を切り裂くようにして電子音が響き渡る。音の方を見れば、完璧に忘れられていた携帯が落とされた場所で着信を告げている。またフランシスかアントーニョからの連絡だろう。

「無粋な奴等だ…こんな時まで」

 吐き捨てるように呟いて、ルートヴィッヒは視線をギルベルトに戻す。
 伏せられた瞳はもう何も映さない。笑みの名残が浮かぶ唇はもう何も紡がない。
 兄さんはもう何も応えない、と声には出さず教えてやる。そういえばあの2人はこれを知ったらどう思うだろうか。きっと酷く怒るのだろう。それから──泣く、のだろうか。親しかった友のことを思って。そこまで濃密な接触を持っていた訳ではないから、そんなところなどまるで想像出来ない。出来なくとも全くもって困らないが。どうせもう会うこともない。
 「またな」と言ったのに嘘になってしまうな、とルートヴィッヒは己の友達に思いを馳せて申し訳なく思う。菊などこちらを気に掛けてくれていたのに、結局何も言えず終いだった。考えれば考える程、粗が見付かるばかりだ。全く、どうしようもない。
 少しばかり苦笑して、ルートヴィッヒは脇に放っていたものを拾い上げる。カーテンを通して室内に入る陽光に、それはきらりと輝いた。肌に当てると身が凍るような冷たさが伝わってくる。鋭い、刃だ。そう大振りではないが、切れ味は折り紙付きである。
 ルートヴィッヒはグッと刃を押し込む。薄皮が裂けて鋭い痛みがあり、どろりと真っ赤な体液が流れ出す。更に刃を進めれば、静脈だか動脈だかが切れたらしかった。やけに明るい色の血が噴き出す。ぐらり、と視界が揺れる。
 ルートヴィッヒは手にしていたナイフを取り落とした。自重を支え切れず、前のめりに倒れ込む。そこは丁度ギルベルトの隣だった。手を伸ばすと白い肌を血が汚していく。勿体ないな、とその場にそぐわないこてを考えながら、ルートヴィッヒはギルベルトの顔の位置までどうにかずり上がる。
 霧がかかったかのように目が霞む。それでもギルベルトの顔だけはしっかりと捉えることが出来た。血で汚れてしまっても、彼はとても美しかった。慎重に身を屈めて、躊躇いがちに唇を重ねる。
 彼と交わす初めての口付けは、少しだけ鉄の味がした。
 情緒も何もあったものじゃない、苦く笑ってルートヴィッヒはベッドに倒れ込む。もう少し幸せに満ちた状況を想像していたのだが──思えば無理な願いだったか。神様が重大な過失でも犯さない限り報われることなどないと、分かっていたつもりだったのだが。
 どんどん思考が成り立たなくなっていく。目を開けている筈なのに、もう何も見えなかった。

「ギル……」

 意識が飛ぶ瞬間、脳裏に去来した記憶はどうしてだろう、どれも悪友と下らないことで笑い合っているギルベルトの姿だった。






報われない想いの末路
(来世でなら、貴方と幸せになれるだろうか?)