「ん……、」

 微かに聞こえた物音にギルベルトの意識はゆったりと浮上した。寝返りを打ち、のたりと瞼を押し開ける。目に映った天井は見慣れた、自分の部屋のものだ。
 10日も他人の家にいたものだから、我が家に戻ってきたのが夢のような感覚がある。こうして自室で目覚めるようになってもう8日経つというのに。
 悪友の説得を振り切って帰ってから、ルートヴィッヒは必要以上には触れてこない。性的な接触など帰ると決めた日に初めてされた触れるだけの口付け以降、皆無。
 お蔭で少しずつではあるが、恐怖心が薄れていっている。それが支配していた場所に代わりに芽生え始めたのは、淡い想いだ。相手がそういう意味で自分を好いていてくれていると分かったのは、ギルベルトにとっては大きかった。嫌が応でも顔を合わせるものだから、一々意識してしまう。それは今までになかった感情の育成と増長を促した。

「…ルッツ?」

 寝惚け眼を擦りながら、ギルベルトは部屋から顔を出す。廊下にルートヴィッヒの姿はなかった。彼の居場所を示すように、階下から断続的な物音が聞こえてくる。
 それがどこか不安を掻き立てて、ギルベルトは身震いした。我知らず足音を忍ばせて一階に降りる。視線を巡らせてふと目についたのは玄関に置かれたボストンバッグ。確かに今日は休日だが、どこかに出掛けるなんて言っていただろうか。そんな遠出をするみたいな、荷物。
 ぞわ、と悪寒が背筋を舐めた。

「…おはよう、兄さん」

 その場に立ち尽くしていると、携帯を手にしたルートヴィッヒが顔を出した。その表情は少なからず動揺しているように見える。この時間に置き出してくるとは思っていなかった風だ。確かにギルベルトは休日は遅くまで寝ていることが多い。それを見越して、何をしようとしていたというのだろう。
 ギルベルトは何気なく見えるように祈りながら、ルートヴィッヒに言葉を投げ掛ける。

「どっか行くのか?」
「……」

 答えはない。気不味そうに視線が逸らされる。ルートヴィッヒがこんな反応をするのは、知られたくないことをしている時くらいしかない。
 ざわざわと感情がさざめく。眠気は疾うに吹き飛んでいた。あぁ、ちゃんと答えて。どこにも行かないと、言って。

「…俺はこの家を、出る」

 躊躇いがちに言われたそれに、ギルベルトは目の前が真っ暗になるのを感じた。
 出る──出ていく。一体誰が。どうして、出ていくなんて。そんなのは。どうして。何でそんなこと。
 混乱した頭をぐるぐると言葉が巡る。ルートヴィッヒが何か言っているけれど、上手く理解出来ない。否、したくない。
 ギルベルトはいよいよ堪らなくなって、ルートヴィッヒに詰め寄った。くしゃりとシャツを掻き掴む。

「出てくって、何だよ?! 何で、そんな…っ、そんなの、」

 嫌だ、とは言えなかった。
 唇に当てられたルートヴィッヒの指がそうするのを阻む。ギルベルトは弟の顔を見上げた。彼はいつもと同じ困り顔で自分を見つめてくる。愛していると告げた同じ口でこんなにも早く別れを告げられるなんて、思いもしなかった。増してやこの家を出ていく、なんて。
 悔しいのか悲しいのかよく分からないまま、ギルベルトは唇を噛む。涙が浮くのを抑えられない。

「兄さん、」

 ルートヴィッヒが何か言おうとするのからギルベルトは逃げた。
 聞きたくない。そんな話、聞きたくなどない。
 くるりと踵を返し、階段を駆け上がる。自分の部屋に飛び込んで乱暴にドアを閉めると、ギルベルトは抜け出たばかりのベッドに突っ伏した。溢れ出る嗚咽がシーツの上に打ち捨てられて、冷えていく。






宣告された別離
(一緒にいたい、俺の思いを聞き届けてはくれないの?)