瞳に涙を溜めて二階に駆け上がってしまったギルベルトの背中を、ルートヴィッヒは呆然を眺めていた。
 逃げる体を反射的に掴まえようとしていた手を下ろす。はぁ、と深い溜め息が口を突いた。
 だから出来れば会わないで済むようにと思って行動していたのに。どうしてこんな時に限って起き出してくるのだろう。全く、間が悪いといったらない。
 ルートヴィッヒはリビングのテーブルに置いていたものを手にして、ギルベルトの後を追い掛けた。

「っ、入ってくんな、馬鹿」

 ドアをノックすれば微かな嗚咽と共にそんな声が返ってくる。しかしその言葉に従う訳にはいかない。ルートヴィッヒはゆっくりとドアを押し開けた。
 ギルベルトはベッドに突っ伏した顔を上げようともせず、全身から拒絶の念を発している。
 微苦笑して、ルートヴィッヒは彼の側に歩み寄る。すぐ隣に腰掛ければギルベルトはほんの僅かに身動いだ。

「兄さん、永遠に帰ってこない訳じゃない」

 言いながら銀の髪に指を通す。またギルベルトが少しだけ反応する。
 家を出ると言ったって、永遠に帰ってこない訳ではない。そんなのは自分だって耐えられないだろう。
 ルートヴィッヒがそれを決めたのは、他の誰の為でもない、ギルベルトの為だ。つい最近まで自分を弟としてしか見ていなかった彼には、この愛は重過ぎる。きっと戸惑わせて泣かせるばかりになってしまう。だからこれは必要なことなのだ。
 一度頭を冷やして考えなければいけない。自分も、ギルベルトも。

「時間が必要だと思うんだ」

 落ち着いて考えるだけの時間が。その中で答えを見付けようとしても、一人きりでなければ定まりきらない気がした。それをなくすには、身を切られる思いで距離を置くしかない。手の届くところだと、視界に入るところだと辛いから、出来るだけ遠くに行く。偶然が重なっても決して会わないであろう場所に。
 行き先は告げない。携帯も買い換えることになるだろう。簡単に連絡が取れてしまっては意味がないのだ。そうして考えて考えて、ちゃんとした答えが見付かったら帰ってくる。それはもう既に決まっているも同じなのだけれど。
 ルートヴィッヒは指にギルベルトの髪を絡ませながら言葉を続けていく。

「だからもしよければ、待っていて欲しい」

 この場所で、自分の帰りを。呆れて見切りをつけてくれてもいい。けれど、もし少しでも自分のことを想っていてくれるなら──。
 ギルベルトがもぞりと動き、上体を起こした。
 隠されていた目がまた真っ赤になってしまっている。あぁ、近頃は本当に泣かせてばかりだ。

「…何、それ」

 膝に乗せていた箱が目についたのか、話題を逸らすようにギルベルトが問うてくる。
 ルートヴィッヒは蓋を開いた。そこに入っているのは、銀の十字だ。
 まだ幼い頃、二人で揃いのペンダントを持っていたことがあった。それは玩具も同然の代物でもう失われて久しいが、ルートヴィッヒの記憶にはしっかりと残っている。大好きな兄と同じものを持っているのが嬉しかったのかもしれない。
 そんなペンダントによく似たものをふと見付けて、衝動買いしてしまったことがあったのだ。渡すのに適当な理由が見付からなくて、机の片隅にずっと乗っていた。ルートヴィッヒは箱からそれを取り出すと、ギルベルトの首にそっと填める。瞳がきょとりと瞬かれたが、彼もすぐに昔よく似たものを持っていたと思い出したらしい。
っと目元が笑む。
 その様子を視界の端に入れながら、ルートヴィッヒはチラリと時計に目を遣った。名残惜しい、けれどもう行かなければ。立ち上がろうとすると、袖口をギルベルトに掴まれた。
 そして彼は。

「待ってる」

 ごく小さな声で、そう言った。
 ルートヴィッヒは上げ掛けていた腰を下ろして、その額に口付けを落とす。ギルベルトが擽ったそうに目を細めた。
 あぁ、何て愛しい人。離れたくない。しかしこれは自らが決めた別れだ。
 後ろ髪を引かれながら、ルートヴィッヒは部屋を後にする。静かに閉まるドア。
 そして──そして二人は、暫しの断絶を迎えた。






貴方と交わす誓約
(必ずまた会って、その耳元で愛していると囁こう)