フランシスは鼻歌を歌いながら、慣れた動作で遅めの昼食を作っていた。このキッチンに立ち始めてどれくらいになるだろう。
 そんなことを思いながら、フランシスはリビングに目を遣る。そこではギルベルトが考査用のレポートに頭を悩ませていた。窓から差し込む柔らかな日差しに銀髪が煌めいている。
 外はまだ寒いが、陽光は随分と暖かい。彼がやっているのが後期の考査用レポートだから──実感が湧かないがもう2年は経つということになる。
 フランシスは首を傾げた。環境が移り変わって忙しくしていたものだから、時の経過を感じる暇がなかったのだろうか。頭で計算してみると、やはりそうだ。あれから、ルートヴィッヒが家を出てから、もう2年と少しばかりが経った。
 最初にこの台所に立ったのは、クリスマスだったろうか。一人の家程寂しいものはないだろう、ということでアントーニョと集まったのが最初だったような気がする。学園が附属している大学にエスカレーター式に進学してもそれは続いた。寧ろ盛んになったと言ってもいい。大学のキャンパスが丁度この家を挟んで学園と真反対の位置にあったのが、それを助長したのだろう。
 3人の家の中で一番大学に近いのはここだ。家で飲む時や考査前には泊まり込むことさえある。ギルベルトにふざけて手を出そうとすると痛い目に遭うのが何だが。
 彼がルートヴィッヒと一緒に家に帰ると言い出した時、フランシスは心底びっくりした。しかしルートヴィッヒの帰りを待つのだと宣言された時の方が驚いたように思う。何のドラマ、若しくは映画のヒロインだ。最早健気だとかそういう問題ではないだろう。

「ギルー、そろそろ出来るぞー」
「……あぁ、」

 フライパンを火から下ろしながら声を掛けると、完璧な生返事が帰ってくる。初めから手伝いを期待していないから気にもならなかった。
 フランシスは予め用意していた皿に盛り付けていく。まだ講義を受けているアントーニョもそのうち来るから、きっちり3等分だ。その量にももう慣れた。別々のメニューを3人分作らないでいいだけマシだ。料理をするのが嫌いではないから、別に作ることになっても苦ではないが。
 ──と、不意にインターホンが鳴る。
 出たいのは山々なのだが、生憎手が離せない。フランシスはギルベルトに視線を送る。彼は面倒臭そうに顔を上げ、応答もせずに玄関に向かっていった。
 全く、不審者だったりしたらどうするつもりだか。フランシスはフライパンを片手に、軽く溜め息を吐いた。



 懐かしい、と周囲を見て思う。
 建っている家や店に少しばかり変化があって、それが離れていた時間を感じさせた。それは長いようで短かった。一日一日を長いと感じても、一度過ぎてしまえば一瞬だったという認識になる。そうして日は過ぎていった。気が付いてみれば、もうかなりの年月が経っている。忘れたかと思っていた家への道は、歩いてみればちゃんと思い出すことが出来た。
 それに少しだけほっとする。生まれ育った町で迷子だなんて堪ったものではない。幼子ならまだしも、もういい年だ。彼に知られたら笑い転げられるのが容易に想像出来る。本当に迷わなくてよかった。
 歩き慣れた道を通っていけば、見慣れた家が近付いてくる。変わらない、帰るべき我が家。そこに僅かな違和感があった。探してみればそれはすぐに見付かる。駐車場に停められた真っ青なプジョーだ。
 ふっと眉を寄せる。誰か来ているのだろうか。そうだとすれば、それが誰なのかは何となく予想がつくけれど。
 口元に微笑を浮かべながら、インターホンを押す。応答はない。代わりに玄関にやってくる足音が微かに聞こえる。
 彼が出てきたらどうしようか。
 抱き締めて。口付けて。
 あぁ、けれどそれよりも前に。



 ギルベルトはレポートの内容を考えながら靴に足を突っ込む。
 勧誘か何かだったりしたらキレてしまいそうだ。提出期限が地味に近いから、そんなことに構っている暇はない。一体こんな昼日中に誰なんだ、と心中で悪態を吐く。せめて来るならレポートが一段落した頃にして欲しかった。頭に血が上ったら纏まりかけた内容が飛んでしまいそうで怖い。
 来訪者がアントーニョ、という線はないだろう。まだ講義が終わる時間ではない。途中で抜け出してきたり、教授が早く切り上げたりしたのなら話は別だが。
 ギルベルトは鍵を外し、扉を開けて──目を見開いた。
 玄関先に立っていた、のは。レポートの内容がすこんと頭から抜け落ちる。冷静でいられる筈もなくて、ギルベルトは彼に駆け寄った。誰かに見られたら、などということを考える余裕はない。
 差し伸べられた腕の中に飛び込めば、しっかりと抱き締められた。その力強い腕が懐かしい。
 ギルベルトは溢れ出しそうになる涙を必死で止める。こんな日に涙など見せたくない。
 眦に浮いてしまった滴を隠すように頬を寄せた彼の首元に、ギルベルトは見慣れたものを見付けた。銀の十字。それはギルベルトの首元にもかかっている。あの日渡されたペンダントだ。昔も今も、揃いの。
 そっと頬に指を添えられて、ギルベルトは顔を上げる。彼が柔らかく微笑む。

「ただいま、兄さん」

 鼓膜を震わせる声が懐かしくてしょうがない。
 2年も会えなかった。電話をすることもメールもすることも出来なかった。懐かしいに決まっている。一人きりの時間は寂しくて辛くて、何度も挫けそうになった。けれどそれももう、終わるのだ。
 ギルベルトは少し拗ねた表情を作る。

「遅いんだよ、馬鹿」

 睨むようにしてやると、彼は済まない、と本当に申し訳なさそうな顔をした。それが何度も見たいつもの表情であるのに満足して、ギルベルトは目尻を下げる。その反応に彼は相好を崩した。
 二人でクスクスと笑い合い、ふと何かに導かれたように互いの顔が近付く。そして重なる唇。
 初め触れ合うだったそれは、次第に深く濃厚なものに変わる。舌先で口蓋を擽られてギルベルトは僅かに体を震わせた。流れ込んでくる唾液を飲み下す。最後に上唇を啄まれて、呼吸を奪い合うような甘く情熱的な口付けは終わった。
 ギルベルトは熱い吐息を零しながら、ぽすりと彼に体を預ける。もう二度と離さないとでもいうかのように、掻き抱かれるのが心地好い。

「「愛してる」」

 どちらからともなく告げて、ギルベルトとルートヴィッヒは微笑んだ。






紡ぐのは再会の睦言
(今日は語り明かそう)
(これまでのことを、これからのことを)
(そして、お互いをどれだけ想っていたかを)