逃げるように昇降口に入り靴を履き替えて、いつもの道順で教室に向かう。二階の自分の教室に辿り着くと、ギルベルトは後ろの扉の窓から中を窺った。黒板に並ぶのは見慣れた文字で書かれた数式。二限目は何ともラッキーなことに担任の授業だったらしい。ギルベルトは躊躇いなく教室の扉を開けた。
後ろの方の席に座っている何人かが彼の方を見たが、すぐに授業に戻っていく。アントーニョだけが前の方の席であるにも拘わらず盛大に振り返り、おはようさん、とへらりと笑った。担任も付き合いが三年目ともなると慣れたもので、理由を聞こうともせずに出席簿に何やら書き込んでいる。ちゃんとした訳がある時はギルベルトも言うようにしているから、一々鬱陶しい受け答えをしないでいいのは助かる。
一つだけ空いている自分の席に腰を下ろして、ギルベルトは形だけ教科書を開いた。大して面白くもない時間はやけにのんびりと過ぎていく。残り5分かそこらのところで授業は切り上げられて、ギルベルトに特に注意をするでもなく担任は教室から出ていった。たった15分程しか授業を受けていないというのに、ギルベルトは欠伸を噛み殺す。
駄目だ、至上最強に眠い。次の授業が何でも俺は寝てやる。と、彼がそう思っていることなど知らない脳天気な声が、ギルベルトの眠気を吹き飛ばした。
「飲み過ぎなん? それとも腰痛なん?」
ふそそそそ、とアントーニョが笑う。
こいついつの間にここまで来たんだ、とギルベルトはアントーニョの席と自分の席とを交互に見た。アントーニョが視界から消えてまた現われたことに全然気付かなかった。やっぱり相当眠いらしい。今から寝てしまおうか。
そんなことを思うが、生まれつき空気を読む気がない級友は答えを待っている。仕方なくギルベルトは口を開いた。
「ただの寝坊だっつーの」
「せやからそれの理由を聞いとるんやん」
ギルベルトは小さく溜め息を吐く。確かに頭も腰も痛いが、寝坊した原因はそのどちらでもない。混乱して色々なことを考えてしまって、ほとんどベッドにいたのに寝不足になったせいだ。けれどそうは言えない。言ってしまえば清々しく空気を読まないアントーニョのことだ、何があったのかと聞いてくるに決まっている。
何で同じクラスなのがこいつなんだ、とギルベルトは頭を抱えたくなった。フランシスなら少しは空気を読んでくれるのに。読まれ過ぎて何かを悟られてもそれはそれで困るが。
「何やギルちゃん機嫌悪いなぁ……まさか」
呟いたアントーニョが軽薄な表情を引っ込める。真剣味を孕んだ声に、ギルベルトは小さく体を震わせた。空気を読むスキルがゼロどころかマイナスなアントーニョが感付く筈がない。そんなことが起きるのは天地がひっくり返る時くらいだ。ないないない有り得ない。そうは思うのだが、続く言葉が怖い。
ギルベルトは我知らず生唾を飲み込んだ。
「まさか、マタニティーブルー?!」
「んな訳あるかぁああああ!!」
誰の子よ!などと昼ドラ宜しく言うアントーニョに、ギルベルトは力の限り突っ込んだ。余りの大音声に談笑していたクラスメートが何事かという視線を向けてくる。が、騒いでいるのがアントーニョとギルベルトだと分かると、様子を気にはしつつも自分たちのお喋りに戻っていく。二人が、主にアントーニョのボケのせいでコント紛いの口論をしていることなど、彼らにとっては日常の一部に過ぎなかった。というか、日常の一部ということにしておかないと心労で倒れる気がする。これでも彼らは大学受験を控えた高校三年生なのだ。度々起こるクラスメートの口論如き──と言っても彼らにしてみれば結構怖い──に動じている場合ではない。
早く終わってくれ、という周囲の生徒の切実な願いを神が聞き届けたのだろうか。二人のコント、もとい口論は三限目の始業を告げるチャイムに遮られた。まだ何か言いたそうにしているアントーニョを追い払い、ギルベルトは机に突っ伏す。どっと疲れた。もう本気でアントーニョをフランシスと交換したい。
ギルベルトはそのままの体勢で寝に入り始めた。と、胸ポケットで携帯のバイブが唸る。開いてみれば新着メール1件。送り主はアントーニョ。内容は──
『で、誰の子なん?』
ギルベルトの怒声が吐き出されるまで、残り1秒。
級友は常に脳天気
(そんなお前が羨ましい、なんて時々思ってしまう)