昼休みとあって人が多い廊下を走っていく。何人かと肩がぶつかったが、気にしているような余裕はなかった。ギルベルトは目に付いた教室に飛び込む。そこは試験管やらビーカーやらが雑多に並んでいる──化学室だった。次の授業に備えて移動するにしても時間が早過ぎる為、室内には誰も見受けられない。
 各机に備え付けられている流しの縁に手を突くと、ギルベルトは堪えていたものを吐き出した。朝から何も食べていないから大したものは出ない。胃酸が徒に喉を灼くだけだ。けれど嘔吐感は治まらなかった。涙目になりながらゲホゲホと咳き込んで、ギルベルトは細く息を吐く。
 あぁ、絶対に不審がられた。アントーニョはまだしも、フランシスは何かしらに気付いた筈だ。明日顔を合わせるのが気不味い。もし問い詰められたら、自分はどうやって答える気だろうか。淡々と時を刻んでいく時計の針の音を聞きながら、ギルベルトはぼんやりと考えた。

「ギルベルト、さん?」

 不意に背後から声が掛けられる。びくりと体を跳ねさせて、ギルベルトは声の方へ振り返った。そこには何度か目にしたことがある姿。誰だったか、と考えて、意外にすぐ名前は出てきた。
 本田菊だ。初めて会った時に丁寧に名乗られたのを覚えている。
 彼は扉の脇にあるスイッチで電気をつけると、教室に入って開けっ放しになっていた扉を閉める。そして具合の悪そうなギルベルトに気付いたようだった。

「吐いたんですか? 真っ青ですよ、顔」
「何でもねぇよ…大丈夫だ」

 心配そうな表情で近寄ってくる菊をギルベルトは拒絶した。ともすれば笑ってしまいそうな膝を叱咤して、掴んでいた縁から手を放す。無理に笑ってみせると菊は痛ましそうな表情をした。彼も大概勘がいい。このやり取りだけでただの体調不良ではないことくらいは感じ取っただろう。
 全くもってタイミングが悪い。こんな時にルートヴィッヒと仲がいい菊と鉢合わせしてしまうなんて。放っておけば自分の不調は絶対にルートヴィッヒにまで伝わるだろう。そうしたらあの世話焼きの弟のことだ、あれこれ構ってくるに違いない。あんなことをした後だって、平然として。まるで何もなかった、みたいに。
 ぐらりと目の前の景色が歪む。また吐きそうだ。ギルベルトは過去に戻り始める意識を必死で引き戻した。触れられたくない。今ルートヴィッヒに触れられてしまったら、どうなってしまうか分からない。それが、怖い。

「ルッツには言わないでくれ」

 心配させるから、と尤もらしい理由をギルベルトは付け足した。
 暫し躊躇うような間があった後、菊の首は緩慢に縦に振られる。彼は約束を反故にするような性格ではない。頷いたからには言わずにおいてくれるだろう。悪いな、と自分より幾分か下にある菊の薄い肩に手を置く。いえ、とやはり心配そうな顔で彼は微笑した。
 ギルベルトは重い足を踏み出す。吐いても一向に気分はよくならなかった。精神的な問題だからだろう。不安げな菊の視線を背に感じながら、ギルベルトはそこを後にした。
 ルッツ、どうして。当てもなく歩きながらギルベルトは心中でそう呟く。どうして、あんなこと。二歳下の弟は生まれてこの方、無上に可愛くて愛しい存在だった。けれどそれはあくまでも家族に対する愛情で、愛欲を伴うようなものではない。弟が、ルートヴィッヒが自分を慕ってくれるのも、ずっと同じ感覚からだと思っていた。
 だが、違ったのだろうか。だとすれば一体、いつから。ギルベルトはルートヴィッヒを弟としてしか見ていなかったから、相当に無防備だった。風呂上がりにジーンズを引っ掛けただけの格好でいることもあったし、土曜のように明らかな痕跡を残して家に帰ることもままあった。そんな自分を、ルートヴィッヒはいつからそういう目で見ていたのだろう。

「ルッツ……」

 どうして、どうして。声なきギルベルトの問いに答える者は、いない。






渦巻く疑念
(俺にはもうお前が分からない)